先日のコラムでも書いたが、僕はタバコをやらない。単純にお金がもったいないと思っているからだ。それに、タバコを吸ってかっこつけたいとも思わないし、吸う理由がない。
しかし、その代わりといってはアレだけど、酒も博打もやる。ただ、これはあくまで僕の嗜好なので、それを誰かに勧めたり、押し付けるようなことはしたことがない。(文:松本ミゾレ)
昔の娯楽の定義から脱却できないおっさんたち
先日「はてな匿名ダイアリー」に、興味深い投稿があった。投稿者は社会人になってから「酒、タバコ、ギャンブルをしないで何が楽しいの?」と言われたそうだ。同じようなことを言われたら憤る方も多いかもしれないが、彼の場合は「世の中そういう人もいるんだな」と感じたそうである。
今の時代、お酒も、タバコも、ギャンブルも、どうしたって避けられない社会人としての通過儀礼というほどのものでもない。昔は、会社の飲み会は実質的に参加必須で、接待で飲むことも多かったかも知れない。
タバコだって社会人の大多数は吸っていたわけだし、電車にだって灰皿が備え付けられていて、子供がいようがおかまいなしにスパスパ吸うおっさんだらけだった。
ギャンブルだってそうだ。公営ギャンブルは今以上に大勢が熱中していたし、パチンコ・パチスロなんかほんの20年ほど前は爆裂機全盛。現在のような規制に規制を重ねて、しょぼい出玉しか望めない時代とはかけ離れていた。
きっとこういう、往時のノリを未だに引きずっているおっさんたちがしばしば、若い人たちに「酒も飲まないなんて」とか「博打も知らないのか」なんていうんだろう。さもしい人々である。
タバコやギャンブルに依存状態になっている人の言葉は聞かなくていい
さて、今回の投稿には次のような反応が寄せられていた。
「自分が楽しいと思うことをやらない人間をバカにする人っていますよね」
「昔はそこに『女』が入ってた。その手の人でも時代の変化には対応してるらしい。じきにタバコが無くなって、次は酒が無くなるのかな」
「低所得者層の嗜みってかんじだなあ 」
まあ、酒もタバコもギャンブルも、楽しみとしては間口が広いし、浅いし、お金がなくても参加できるから、人生に深みがない人ほど夢中になるものなんだろう。でも、だからといって他人にそれらを強要するのは、やっぱりなんか、みっともない感じはするよね。
言ってしまえば、アルコールやニコチン、そしてギャンブルで生じる脳内物質で完全にやられているような人たちなのだ。依存状態だから、他の趣味を持つ人々に迎合できず、同じ穴の狢を探そうとするし、作ろうとする。
最初に触れたように、僕は酒が好きだ。しょっちゅう1人で飲んでいる。だけど誰にもそんな生活勧めたくない。「こいつ、この程度のことが楽しくて生きてるんだ」とか思われるの確実だし。
ギャンブルにしたってそうだ。興味がない人にいちいち「博打ってのはな」とか話しかける人になったら、人生おしまいだと思う。
趣味、遊びには様々なジャンルがある。そしてこれらは大概、他人に「お前もやれ」なんて指図されたら、途端につまらなく感じてしまうもの。自分の人生を自分なりに楽しむために、自分の直感で適当に模索していけばいいのだ。
「これを趣味にせずして人生の何が楽しいのだ」みたいなことをいってくる奴に、迎合しても何も面白いことはない。