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狂気に包まれた不毛な残酷さーー『機動戦士ガンダム サンダーボルト BANDIT FLOWER』の特殊性

2017年11月22日 13:12  リアルサウンド

リアルサウンド

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 「音楽は空気の中に消えゆき、二度とそれを捕らえることはできない」-エリック・ドルフィー(ジャズ・ミュージシャン)-


 『機動戦士ガンダム』の諸作品のなかで、近年まれにみるインパクトのアニメシリーズが、同名の原作漫画を持つ『機動戦士ガンダム サンダーボルト』だ。このシリーズは、「初代(ファースト)」と呼ばれるTVシリーズ第一作のガンダムしか知らないような観客や、全くガンダム作品に触れたことがない大人の観客にこそ、とくに観てほしいと思える作品だ。


参考:『機動戦士ガンダム サンダーボルト』はヒーロー不在の異色作? 血生臭い描写が示す戦争のリアル


 本シリーズは有料配信サービスで第1シーズン(全4話)、第2シーズン(全4話)が販売されており、劇場版の第2弾である本作『機動戦士ガンダム サンダーボルト BANDIT FLOWER』は、第2シーズンの内容を再構成したものである。ここでは、第1シーズンの内容も振り返りながら、本作の特殊性や、描こうとしているものを深く考えていきたい。


 第1シーズンを鑑賞したときの衝撃をよく覚えている。戦場の両陣営の兵士たちがひたすら消耗的な戦闘を繰り返し、兵士たちが取り返しのつかない戦傷を負ったり、無残に死んでいくような凄惨な状況、ほとんどそれを描いていると言っても過言ではない、狂気すら感じる鋭く尖った作品だったのだ。


 たしかにガンダムシリーズは、初代を含め多くの作品で戦争のむごたらしさを描いているが、消耗品として使いつぶされる末端の兵士たちの虚無的な死を、ここまでリアリティを重視してフォーカスし続けるという姿勢というのは異端的に感じる。『戦争のはらわた』や『スターリングラード』など、リアリティを重視した残酷描写のある実写の戦争映画を彷彿とさせる本シリーズは、ガンダムという題材を、いままでのシリーズの魅力を継承するようなかたちではなく、既存の設定を新たな解釈で甦らせている。これは、原作漫画の功績が大きいといえる。


 第1シーズンの舞台は、初代『機動戦士ガンダム』で描かれた「一年戦争」末期、ジオン公国軍が守り地球連邦軍が制圧を目論む、ジオン軍の最重要拠点である宇宙要塞ア・バオア・クーへの補給路「サンダーボルト宙域」である。劣勢のジオン軍は、スペースコロニーの残骸が浮遊し、絶えず雷が発生している特殊な環境を利用しながら、「リビング・デッド師団」という、ゾンビを意味する名称のスナイパー・モビルスーツ(有人機動兵器)部隊の活躍によって、迫り来る連邦軍の部隊を迎撃していた。


 リビング・デッド師団は、戦闘で腕や脚を失い、義手や義足を装着した人々による部隊だ。彼らは、死が目の前にある最も危険な前線に置かれ、命をもって盾の役割を命じられているのである。そのなかで「撃墜王」と呼ばれ圧倒的な命中率で部隊を守っているのが、本シリーズの二人の主人公のうちの一人、ダリル・ローレンツ曹長である。彼は歩兵としての戦闘中に膝から下の部分を失っており、その後は義足で生活しながら、狙撃仕様の「ザク」シリーズに乗って日々の新たな戦闘に参加している。


 連邦軍最新鋭の機体「フルアーマー・ガンダム」を駆る、もう一人の主人公が、有力者の子息ながら好戦的で豪快な性格のイオ・フレミング少尉である。最前列で道を切り開く彼もまた、軍部によって戦意高揚の道具として利用されている。だが彼は、難攻不落のサンダーボルト宙域を飛び回りながらリビング・デッド師団を撃破していく健闘を見せる。ジオン軍のローレンツと、連邦軍のフレミング。従来のそれぞれの軍の性質とはイメージが異なる性格を与えられた彼らは、互いに絶望的な状況のなか、ライバルとしてサンダーボルト宙域で死闘を繰り広げることになる。


 二人の人間性は音楽の趣味によっても強調されている。イオ・フレミングは出撃の際に必ずフリージャズを流す。その特徴が、より自由なインプロビゼーション(即興演奏)にあるように、彼は自らを縛りつけようとする出自や現在の境遇から逃れるため、命のやり取りをする危険な戦場に身をさらす。そこで鋭敏な感覚に従いながら生き延びることでのみ解放された自由を感じることができるのだ。文頭で引用した、アドリブ演奏の名手であるエリック・ドルフィーが言うように、卓越したミュージシャンであっても、そのときの高度な即興プレイというのは二度と再現できないものである。フレミングは、その瞬間にだけ存在する甘美な刹那(いま)だけを自分の居場所ととらえ、戦場の狂気を味方にしている。


 対してダリル・ローレンツは、ポップスを愛聴しており、なかでもウェットなラブソングがお気に入りだ。過酷な戦場においてそんなローレンツを支えるのは、過去の幸せな思い出であり、未来の幸せへの期待である。フレミングからは「音楽の趣味は平凡だな」と言われてしまうが、ローレンツは彼とは逆に「いま」を犠牲にし、過去と未来への感傷によって狂気から自身を守っているといえる。


 本作『機動戦士ガンダム サンダーボルト BANDIT FLOWER』でも、そんな対称的な二人の運命を継続して追っていくことになる。その冒頭は、ジオン公国の宇宙要塞が陥落していく光景だ。ついに心臓部に連邦軍のモビルスーツが侵入し、白兵戦を展開し要塞を制圧していく。そこに美しいカタルシスなどはない。連邦軍の部隊はリスクを最小限に、淡々と数の力をもって、抵抗を見せるジオンの兵たちを殺害していくのである。ここでの戦場のリアリティの追求はとくにグロテスクだ。初代『機動戦士ガンダム』のクライマックスでも、このア・バオア・クーの戦いは描かれていたが、主人公のアムロが仲間へのつながりを感じ幸せを見出しているそのとき、おびただしい数の戦死者の遺体が宇宙空間を埋めていた。本作はそういう部分に、より積極的に目を向けてゆく。


 初代『機動戦士ガンダム』で描かれるジオン公国は、「ジオニズム」に基づいた選民思想を掲げる、過激な軍事独裁国家であった。だからわれわれ視聴者の多くは、凄惨な殺し合いのなかでも連邦軍に正義を感じることができた。子どもを戦場に出撃させる「学徒動員」を大々的に行っていたのもジオンだった。だが本シリーズでは、連邦軍の側も子どもたちを「人間の盾」として戦局を打開しようとする場面が描かれていた。本作で直接的に「特攻」を命じられたジオン軍兵士たちが、「連邦もジオンも滅びてしまえ!」と言いながら突撃するように、本シリーズにおける、それぞれの軍から実質的な「死」を命じられた末端の兵士たちは、ただただ両軍の犠牲者として死んでいくのみである。たとえどんなに正しい理念を掲げていたとしとも、前線の兵士たちが体験する世界は、そんな光など届かない地獄なのだ。


 本シリーズで最もショッキングな戦争犯罪は、すでに義足をつけているリビング・デッド師団の兵士に対して、より効率よく敵を撃破するため、残った生身の腕をあえて切り落とし、身体をさらに機械化する手術を行う場面だ。戦傷のために人体を機械化するのであれば、まだ人助けという考えも成り立つだろうが、積極的に人体を切り刻むという非人道的なことをしてしまえば、それは特攻と同じく、もはや国家が人間を駒としてしか見ていないことになり、戦争の大義すら揺らいでしまう。


 このようなジオン軍の非人道的な行為の背景にあるのは、権力者たちや上官たちの保身に他ならない。彼らはなりふり構わず若者の命を盾に、自分たちの延命を図っているのである。ここに至って、戦争でめざましい働きをして勲章や階級を与えられる「英雄」とは、国民の命を守っているのではなく、実際にはごく一部の人々を守らされているという仕組みが明らかになってくる。


 そんな不毛な戦いは、ジオン公国滅亡後も続く。ダリル・ローレンツ率いるリビング・デッド師団は、数を減らしながらもジオン残党として生き残り、地球へ落ち延びる。地球では連邦から脱退し独立国家の建設を掲げた「南洋同盟」と連邦との戦闘が発生し、南洋同盟が保持する破壊兵器をめぐって、ジオン残党も加わった三つ巴の戦いに移行していく。フレミングは地上戦や水中での戦闘にも長けている新たな機体「アトラスガンダム」に乗り換え、ローレンツは、一部ファンから「萌えモビルスーツ」としても人気の高い、テディベアのようなプロポーションの「アッガイ」で仲間を率いる。


 今回の見どころは、過激な宗教によって結びついた南洋同盟の僧兵たちが、自爆を覚悟し命を捨ててまで次々に連邦軍に向かって来る描写である。そのあまりの異様な事態に、彼らを撃退していく連邦軍は不気味な心理的恐怖に震えあがる。この狂気に包まれた不毛な残酷さこそが『機動戦士ガンダム サンダーボルト』の世界なのだ。この三つ巴の戦いは継続し、その決着は第3シリーズに持ち越されるはずである。


 私は本作を一般上映で鑑賞しているが、劇場には主に男性の30代~50代と見られる年代の観客がメインだったように感じた。アニメ作品としては特異な光景である。それは本シリーズが、大人の観客の支持を受け、初代ファンすら惹きつける力を持っていたことの証左であろう。しかし、ここまで述べてきたように、本シリーズはそれ以外の観客にも受け入られる普遍性を持っている。ガンダム作品は、馴染みのない観客や視聴者にはとっつきにくい印象があるかもしれないが、『サンダーボルト』はぜひ従来のファン以外に発見してもらいたい作品なのだ。


 そこに拍車をかけるのが、本シリーズの音楽を担当している菊地成孔の手腕である。本作では第1シーズンからさらに飛躍した実験性を見せる。かつて江利チエミが歌った、民謡『串本節』のマンボ風アレンジ曲のカヴァーや、狂った姫の物語をモチーフにした劇中曲『戦争』など、ジャズから歌謡曲にまたがる独立した文学性と官能性を感じるところが面白い。一聴するとミスマッチにも思える劇中での使用は異化効果を生み、そこに新たな狂気と意味を発生させている。その姿勢は、原作漫画がガンダムの世界観に対して行ったものと同質である。従属ではなく積極的に原作漫画の世界を変質させ、新たなものを生み出そうとする部分に、本シリーズがアニメーションとして作り直された意味がある。(小野寺系)