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稲垣、草なぎ、香取が示した〈芸能〉の振る舞い 『72時間ホンネテレビ』鮮烈さの背景を読む

2017年11月19日 07:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 元SMAPの稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾の3人による『72時間ホンネテレビ』から二週間ほどが経った。僕はSMAP解散決定の直前に、『SMAPは終わらない』という著書のなかで自由と解放の気分を体現した〈SMAP的身体〉について論じ、「中居が、木村が、稲垣が、草なぎが、香取が、それぞれのしかたで、自由と解放の気分を体現すること」を期待する、と書いた。その点から言うと、Abema TVの『72時間ホンネテレビ』は、すべてを観ることはできなかったが、素晴らしいくらいに自由と解放の気分に満ちたもので、〈SMAP的身体〉というほかない振る舞いに、一視聴者としてとても嬉しく観ていた。とくに、レース終了後の森且行が向こうのほうから歩いてきたときには、泣けてきた。僕に限らずそういう人は、きっと多かったと想像する。番組の詳細については、佐藤結衣氏の熱のこもった記事「稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾による“革命の三日間”『72時間ホンネテレビ』を振り返る」が参考になる。


(関連:稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾による“革命の3日間” 『72時間ホンネテレビ』を振り返る


 この『72時間ホンネテレビ』という番組をメディア論的に、テレビとインターネットの対立構図のなかで捉えるむきもあるようだ。なるほど、本番組は森の出演をはじめ、しがらみの多いテレビではできないような企画ばかりだったし、徹底的にSNSと連動させた番組作りも新鮮だった。『72時間ホンネテレビ』の自由な「ホンネ」は、インターネットというメディアに支えられていた部分がある。旧来的なテレビの低調が言われるなか、たしかにここには、新しいメディアの可能性があるのかもしれない。しかし、個人的な関心から言うと、メディアのかたちはこの番組の本質的な問題ではない。実際、『72時間ホンネテレビ』だって明らかにテレビ的な力学のなか、出演できない人や歌えない曲があったわけで、そこには、「ホンネ」を謳えば謳うほど、「やっぱりダメなものはダメなのだな」という気分がつのる、という逆説の構造もあった。新しい地図サイド自身、そのような構図を打ち出している感もあるが、テレビ=ジャニーズ事務所 vs インターネット=新しい地図という対立構図を読み込み過ぎる必要はない。


 考えたいのは、わたしたちの日常を活性化するような〈芸能‐人〉としての振る舞いについてである。僕は、そのような〈芸能〉の振る舞いに魅了されてきた。1990年代からこのかた、〈SMAP的身体〉とは、まさにそのようなものとしてあった。日常と非‐日常を融解するような存在。複数の領域を越境するような存在。そのような存在こそが、〈芸能〉の人と呼ぶにふさわしい。だから、SNSに参加し、ファンと同じ目線に降りすぎると、日常の側の人となって、むしろ〈芸能〉からは遠ざかるおそれがある。このことは、草なぎ剛自身が番組中、「もうアイドルじゃないんじゃないのかなって気持ちもあるんですよ。こういうふうにネットを始めて、SNSでつながって」と、堺正章にふともらしていたことでもある。


 草なぎ剛は、いろんなことを考えて番組に向かっていたのだろう。とは言え、3人とも共通していたのは、稲垣吾郎が明確に言っていたように、「自分がアイドルかどうかはファンが決める」という態度だった。〈アイドル〉という存在はすごいな、と思う。アイデンティティが他人に委ねられている。香取慎吾は、「僕は小学生のときからここでしか生きてこなかった」と言っていた。少なくとも『72時間ホンネテレビ』において、SNSを使っていようがなかろうが、3人は〈SMAP的身体〉を抱えたアイドルだった。


 したがって、重要なのはきっと「ネットに登場するからアイドルっぽくなくなる」とか「テレビの向こうにいるから芸能人なのだ」ということではない。真に困難な問いは、この進歩的で民主的な社会のなかで、いかに自由で解放的な〈芸能‐人〉でいられるか、ということなのだ。テレビであろうと、ネットであろうと、〈芸能‐人〉的に出現できる人もいれば、できない人もいる。遅咲きだったSMAPの功績は、誰もが〈芸能‐人〉として、アイドルとしていられる、ということを示したことだったはずだ。ファンのために自由でいること。これこそが、〈SMAP的身体〉が示した大きな可能性だ。その意味で新しい地図は、かつてのSMAPの試みの延長にある。


 森との再会は、どうしてあんなにも感動的だったのか。それは、SMAPでなくなった者たちが、それでもなお〈SMAP的〉な存在として、同じ立場で出会い直したからではないか。また自著の話で恐縮だが、『SMAPは終わらない』では次のように書いた。


 森の脱退に対して、僕たちが悲しいと思うとともに喜ばしいとも思えたのなら、それは、森が自由で解放的に――すなわち、このうえなくSMAP的に――振る舞っているように見えたからだろう。(中略)たしかに、森はSMAPを脱退した。しかし、だとしても、森は〈SMAP的身体〉を生き続けている。オートレーサーとして活き活きと走る森の姿は、歌い、踊り、コントをする他のメンバーの姿とまったく一緒である。


 アイドルかどうかを決めるのがファンなのであれば、森且行もまた、間違いなくアイドルであり、〈芸能‐人〉だろう。かつて美しい声で歌い、クールに踊っていたと思ったら、夢を追い、オートレーサーになってしまった。かと思えば、時を経てネットテレビにさっそうと登場し、その名前はトレンドの世界一になってしまった。この、さまざまな領域を軽やかに飛び越える越境的なありかたに、〈芸能〉としておおいに魅了された。メディアの変遷は二次的な問題だ。その時代時代において既存の社会を撹乱し、新しい価値観をもたらす人こそ、〈芸能〉の人にふさわしいのだろう。『72時間ホンネテレビ』に出演した人々は、少なからずそういう人たちだった。


 『72時間ホンネテレビ』の鮮烈さは、ネットテレビというメディアによるものではない。「ホンネ」を暴露したからでもない。越境的で撹乱的な〈芸能‐人〉たちの振る舞いこそが、本番組に清新な風を呼び込んだのだ。それは例えば、森且行がオートバイで走る姿だったり、あるいは、爆笑問題の太田光がジャニーズの話をしてみたり、狩野英孝がおそるおそる「森さん」と口にしたり、という振る舞いだ。メディアは違えど、〈芸能〉というものはつねに、そういう緊張感をはらんだときめきとしてあった。草なぎ剛は番組中、「自分の心をときめかせてくれる人が年齢問わずアイドルなんじゃないかな」と言っていた。


 そういえば、小西康陽による「72」という番組曲は、シュガーベイブ「DOWNTOWN」を強烈に想起させた。EPO版の「DOWNTOWN」は『オレたちひょうきん族』のエンディング曲だった。『オレたちひょうきん族』も、そのようなときめきに満ちていただろう。『72時間ホンネテレビ』の裏で『めちゃイケ』『とんねるずのみなさんのおかげでした』の終了が発表され、『オレたちひょうきん族』に端を発する「楽しくなければテレビじゃない」のフジテレビおよびテレビの凋落が言われる。メディアのありかたも、社会のありかたも変わっていく。しかし、わたしたちの日常を活性化させる〈芸能〉の役割は終わらないだろう。〈芸能〉が終わらなければ、なんらかのかたちで中居正広や木村拓哉が加わる可能性もあるだろうか。『72時間ホンネテレビ』は、そういうことを感じさせる番組だった。(矢野利裕)