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黒沢清監督『予兆』はとびきりの“混合物”だーー相田冬二が『散歩する侵略者』からの飛躍を解説

2017年11月15日 19:42  リアルサウンド

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 映画『散歩する侵略者』のスピンオフ。しかもWOWOWドラマ全5話をつないだもの、と聞けば、まがいものを想像するひとも少なくないかもしれない。だが、これはまがいものではない。アマルガム(混合物)である。それもとびきりの。矛盾した言い方になるが、純粋無垢なるアマルガム。わたしたちは、錬金術から純金が生まれる瞬間に遭遇することになる。


参考:黒沢清監督×夏帆『予兆 散歩する侵略者 劇場版』対談 「最終的には女性が引っ張っていく」


 ここ10年ほどの黒沢清作品のなかで、これは最良の作と呼んでいい。個人的には今年公開映画のなかでは間違いなくベストワンである。


 前川知大率いる劇団イキウメの舞台を映画化した『散歩する侵略者』は、黒沢の過去作品群が走馬灯のようにたちあらわれる、遺作を思わせる趣をたたえた一本だった。舞台版を観るとよくわかるのだが、人間の概念を奪う侵略者という基本設定は、『CURE』の萩原聖人を想起させる。侵略者の働きかけと、奪われた後の人間のたたずまいが『CURE』にリンクするのだ。加えて夫婦という主題。『CURE』から近作『岸辺の旅』『クリーピー 偽りの隣人』までと重なる、夫婦という密室状態が奇怪な出来事によって解放に向かう展開は、不可思議な安堵をもたらす。喪失と安らぎ。このふたつを軸に、『大いなる幻影』『カリスマ』『回路』といった重要作の幻影が細部に宿る。まさか、あの黒沢清がこのようなかたちで自身の歩みの総決算をするとは。驚くと同時に、一抹のさみしさをおぼえたのも事実である。


 ところが『散歩する侵略者』は遺作などではなかった。ステップボードにすぎなかった。『予兆 散歩する侵略者』という大いなる飛翔をものにするための発射台だった。つまり『散歩する侵略者』自体が、とんでもない「予兆」だったのである。


 『散歩する侵略者』は、黒沢清ならではの活劇性(恒松祐里の身体)と楽天性(長谷川博巳の姿勢)にも彩られていたが、『予兆』はぐっと陰鬱なムードで繰り広げられる。登場人物もガクンと減り、舞台も多岐にわたることはなくなり、限られた場所においてのみ物語られる。つまり、いわゆる「スケール」はダウンしている。だが、結果、焦点が絞られ、格段に味わい深いものになっている。


 主要なキャラクターは3人だけである。だが、たった3人だけで「社会」を描くことはできるし、その「社会」を通して「世界」を見渡すこともできる。『散歩』よりはるかに密室性が増している『予兆』は、最小の数で拡張する表現の可能性を示している。ひょっとしたら、このことこそ黒沢が演劇から見出した可能性なのではないか。演劇に対する映画からの返答という意味でも『予兆』はとても意義深い。


 妻がいる。夫がいる。侵略者がいる。侵略者は夫を「ガイド」(人間から概念を奪うための水先案内人のようなもの)に選ぶ。妻は夫を侵略者から守ろうとする。侵略者は妻に特殊な力があることを知る。侵略者は妻から概念も夫も奪うことができない。侵略者は感心する。そのような人間がいることに。やがてその感心は別な感覚に進化=変容していく。


 『予兆』は言ってみれば、ただそれだけの物語である。だが、ただそれだけなのに、まったく目が離せない。シチュエーション、アクション、そしてジャンプ。演劇はほぼこの3元素で構成されている。とりわけ舞台版『散歩する侵略者』にはそれが顕著だ。つまり「設定」から人物配置が定められ、人物たちはただひたすら「言動」を繰り広げ、そのことによって物語は大胆に「飛躍」することになる。


 このチェーンリアクションを戯曲、役者、観客の関係性に重ねあわせてもよい。黒沢は、妻がなぜ特殊な能力を有しているかをあえて考えなかった、なぜなら、演劇であればそんな理由など説明しなくても、物事は進行し、観客はそれを疑問に思わないからだとインタビューで語っている(「目の前のことに一生懸命になっている人、全身で反応する人を描きたい」―映画『予兆 散歩する侵略者 劇場版』夏帆&黒沢清監督インタビュー)。つまり、理由なく存在するのが「設定」なのだ。『予兆』は大胆不敵にも、映画本来の武器である「視覚効果」という娯楽に極力寄りかからずに(逆に言えば『散歩』は寄りかかりすぎていた)、きわめて魅惑的な抑制を施しながら、この3元素を際立たせていく。


 だれに肩入れするかで、この3元素は輝きを変える。妻を中心に眺めれば、夫を連れ去ろうとする「泥棒猫」との、女の意地をかけた闘いが、人類を救うかもしれない壮大な契機にも映るだろう。夫本位で堪能するなら、妻と侵略者、いずれも甲乙つけがたい魅惑を放つ存在に求められ、あっち行ったりこっち来たりする「引き裂かれた自己」に実存的な満足が得られるだろう。そう、これは痴話喧嘩が宇宙戦争と隣り合わせにあるSFであり、トライアングルラブにニヤニヤ顔でたゆたう哲学でもある。
 登場人物わずか3人でこれだけのことができるのだ。そのことに感動させられる。演劇の3元素を「奪って」はいるが、まったく演劇的ではない。なぜか。わたしたちは、そのとき、気づく。ここで描かれている侵略者とは、映画のことではないか?


 妻と夫の前にあらわれた「他者」としての侵略者。彼(東出昌大が演じているので、とりあえず彼と呼ぶ)は、両性具有にも、第三の性にも思えるが、そもそも人間ではない。人間を調査している侵略者である。調査が、関心となり、興味となり、やがて感嘆へと推移していく。この推移こそが、本作最大の見どころである。感嘆が別なものに変容しようとする瞬間、わたしたちは錬金術から純金が生まれる様を目撃するのだ。


 映画は、先行する芸術から多くのものを「奪って」きた。写真から、演劇から、そして美術から。そうして、粘土をこねくりまわすように作り上げられたアマルガムが映画である。『予兆』が観る者を感激させるのは、映画が侵略者としての原点に立ち返り、初心のままに、何かを「奪い」、学習している過程に立ち会うことになるからだろう。つまりは、学びの初々しさ。


 本作は、黒沢清と高橋洋(脚本)のアマルガムでもある。あの『蛇の道』以来、実に19年ぶりの邂逅が、このようなみずみずしさをもたらしたことに心から感謝したい。まるで、生まれたばかりのような息吹きが、この映画にはある。(相田冬二)