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社会への問題意識と潜在的な恐怖ーー『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』が描く文学的テーマ

2017年11月09日 13:32  リアルサウンド

リアルサウンド

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 『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』が、予想を超える大ヒットを果たした。アメリカ本国だけで興行収入3億ドルを突破、今年の興行収入ランキングで上位に食い込み、ホラー・ジャンルの作品に限っていえば『シックス・センス』の記録を抜いて堂々の歴代興行収入1位に躍り出ている。日本でも、とくに高校生などの若い世代で話題を呼んでいると聞く。


参考:『IT/イット』監督が語る、恐怖を与えるために必要なこと 「共感できるキャラ作りを意識している」


 この記事では、そんな本作『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』が人気を得た理由を、あまり考えないで済ませたい。それよりも興味深いのは、本作が原作から写し取って、提出し直した文学的なテーマの方にあると思えるからである。ここでは、そんな本作が描いたものを、できる限り深く考えていきたい。


 本作が話題を集めた背景には、2016年より配信されている、ネットフリックス製作のドラマ『ストレンジャー・シングス 未知の世界』の人気があったことは間違いない。このドラマは、スティーヴン・スピルバーグ監督の『E.T.』に代表されるような、1980年代アメリカの典型的な子どもたちの小さな社会と、超常現象を同時に描いていくという内容になっている。その世界観のベースの重要な一つとなっているのが、本作の原作になっている、ベストセラー作家スティーヴン・キングの1986年の小説『IT イット』なのだ。


 80年代当時、とくにアメリカは政治的な保守化の影響もあり、内面の希薄な享楽的で大衆的なポップカルチャーが前面に押し出されていた傾向がある。そのときに子どもだった世代が、いまちょうどクリエイターとして脂がのってきている時期にあるのだ。全てが輝いていたような「幻想」(実際はそうでもなかったかもしれない)を信じている世代にとって、80年代というのはやはり特別な時代である。


 ただし、スティーヴン・キングの小説『IT イット』が、子どもたちのノスタルジックな恐怖体験を描いた「第一部」は、50年代後半を描いたもので、その後子どもたちが大人となった現代編として描かれていたのが「第二部」80年代だった。つまり、80年代に発表された小説版『IT イット』を、本作が現代の映画作品として描き直したときに、ノスタルジックな子ども時代が80年代へとスライドしてしまったということである。これが『ストレンジャー・シングス 未知の世界』と本作の共通した特徴だ。


 その改変によって、本作は80年代にしては設定が古いと感じる部分(不良少年や人種差別の描写の強烈さなど)が散見されてしまっているものの、大きく齟齬が発生してないように感じるのは、重要な要素である「ピエロへの恐怖」や「大人との軋轢」というものが、いまも普遍的な感覚であり、社会問題であり続けているからだろう。


 本作は、神出鬼没なピエロ「ペニーワイズ」が子どもたちの前に現れ、心理を巧みに操りながら連れ去ったり殺害していくという内容だ。大人にはピエロの姿が見えないため、事件は一向に解決しないが、唯一、学校のいじめられっ子や除け者になった子どもたちで結成された「ルーザー(負け犬)クラブ」だけが、事件の深層に近づき、ペニーワイズに挑んでいく。


 フェデリコ・フェリーニ監督による『フェリーニの道化師』(1970)の冒頭でも、ピエロが不気味なものとして強調されていたように、ピエロという存在には古くから恐怖心を喚起させるものがあった。ただでさえ怖いピエロへのイメージがさらに世間的に決定的なものとなってしまったのが、「殺人ピエロ」と呼ばれた実在の連続殺人犯、ジョン・ウェイン・ゲイシーの出現である。この男は休日にピエロに扮し、福祉施設の子供たちを喜ばせるという慈善行為を続けていた裏で、少年を含む30人以上の人間に性的な暴行を加えて殺害していたのだ。この「連続殺人」と「ピエロ」という要素の組み合わせはあまりにも強烈である。この事件が、ピエロが子どもたちを次々に襲っていく『IT イット』に影響を与えているはずである。


 殺人犯ジョン・ウェイン・ゲイシーは、「男らしさの象徴である、映画スターのジョン・ウェインのようになってほしい」という父親の願いから名付けられた名前だが、そんな期待に応えられなかった子ども時代のゲイシーは、言葉の暴力や肉体的な虐待を日常的に父親から受け続けた。それが後年の殺人事件へと至る理由の全てにはならないだろうが、彼の人格形成の上で重大な影響を及ぼしたことは確かであろう。


 『IT イット』で描かれるのも、親の異常な行為や歪んだ愛情によって子どもが苦しめられる姿だ。そのような暴力的な抑圧というのは家庭内のみに収まらない。ここでは彼ら子どもたちが住む町全体が、多様性を認めない暴力的な価値観によって支配されているように見える。それは俯瞰すると、アメリカ社会全体にわたる、少数者に向けられる不当な抑圧という構図の投影となっている。それは原作者スティーヴン・キングの社会への問題意識であり、同時に子ども時代から自身が感じてきた恐怖だったのではないだろうか。


 本作では、夏休みの図書館の中で独りきりで読書をしている子どもに、「あなたは友達がいないの? 夏休みなんだから、子どもは外に出て遊ぶものでしょう」と大人が小言をぶつけてくる場面がある。この大人にとって、健全な子どもの姿とはそういうものであり、その枠に収まらない子どもというのは不幸でみじめな存在として映るのだろう。この町では、そういった典型的な価値観に適っている者が「勝ち組」で、そこからずれている者は「負け犬」だとされるのである。大人になってベストセラー作家となったスティーヴン・キング自身も、やはり自分が子ども時代に「負け犬側の人間」だったという自覚があるのだろう。


 銃社会の問題を描いたマイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』 は、日常的にいじめられていた高校の生徒たち2人が「トレンチコート・マフィア」を名乗り、24人もの学生、教師を死傷させたという、1999年に起こった「コロンバイン高校銃乱射事件」を扱っている。コロンバイン高校の卒業生でもある、アニメ『サウスパーク』の製作者マット・ストーンは、映画の中でこう語っている。「彼らは、自分たちを一生負け犬のままだと思っていたのかもしれないが、卒業すれば自由になれると、誰かが彼らに教えてやれば良かったんだ」…アニメの世界で成功を収めたマット・ストーン自身も、やはり学生時代に負け犬として扱われた経験があるのだろう。


 前述したように、「殺人ピエロ」ジョン・ウェイン・ゲイシーもまた、「男らしさ」という既存の価値観によって抑圧されねじ曲げられ、反社会的な道に走った人物だと解釈できるように、本作の「ルーザークラブ」もまた、そうなってもおかしくない子どもたちなのだ。だから彼らは、親や社会によって抑圧されるなかで、ピエロの不気味な姿を幻視することになる。彼らにとってペニーワイズに捕らえられるということは、ゲイシーやトレンチコート・マフィアのような存在に自分自身がなってしまうのではないかという、潜在的な恐怖となっている。そして周囲の大人たちは、自分たちが子どもたちを抑圧し、そうなってしまう原因を作り出していることに無頓着である。


 そんなペニーワイズを殺す力を持っているのは、「ルーザークラブ」の子どもたちだけなのだ。負け犬と呼ばれた本作の子どもたちは、その恨みを、ピエロを暴力で惨殺しようとすることで晴らそうとする。その徹底的な暴力描写にはぎょっとさせられるが、これは彼ら自身の内面の葛藤のイメージとして描かれている。彼らが不当に社会から受けた、抑圧や恐怖。それを自らの手で葬り去って決着をつけることで、彼らは他人に対して怒りをぶつけたり凶行に走る未来を回避しようとするのだ。それを達成できなければ、その恐怖は大人になっても彼らの行動を制限し、その反動が異常な行動に向かわせるかもしれない。


 殺人事件が起こったとき、メディアは犯人を、一般市民とはかけ離れた凶悪で異常な人物だと強調しがちだ。だが、彼らをそのような凶行に向かわせてしまう原因の一つには、普通の価値観からはみ出す人間を「異常だ」として排除し、その立場を認めようとしない社会の酷薄さがあるのではないだろうか。本作が痛烈に告発しているのは、その罪から目を背けようとする「普通の人々」の欺瞞である。


 スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』を、原作者のスティーヴン・キングは嫌っていたというが、その理由は、原作の文学的テーマを無視したところにある。キューブリックは、設定や筋立てを利用して、そこに与えられた意味を剥奪し、全く違うものを作ってしまっているのだ。それはある意味でキューブリックの映画監督としての天才性を示すものだが、本作『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』から逆に感じ取れるのは、このような原作の描いた問題を真摯に読み取り、最大限に活かそうとする意志である。(小野寺系)