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“差別”というシリアスな題材をポップに表現ーー『ゲット・アウト』が描く普遍的な恐怖

2017年11月05日 21:22  リアルサウンド

リアルサウンド

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 クエンティン・タランティーノ監督の『ジャンゴ 繋がれざる者』は、アメリカで奴隷制がはびこっていた時代、黒人奴隷だったジャンゴが、南部の豪農の屋敷で奴隷として働かされている妻を助け出そうと身分を偽り、ビジネス相手として屋敷に入り込むという物語だ。奴隷制を支持する南部の保守的な人々は、もちろん黒人であるジャンゴに強い差別意識を持っているが、対面上は賓客として扱い、豪華な食事をふるまう。外からやって来る客を精一杯「おもてなし」する南部のしきたりを、アメリカの南部人たちは「サザン・ホスピタリティ」と呼び、美徳としている。


参考:社会派スリラー『ゲット・アウト』監督が語る、笑いと恐怖の共通点 「どちらも“死と向き合う”のに必要な感情」


 しかしこの映画の南部人たちは、言葉の端々や態度からにじみ出る、よそ者や異なる人種に対しての差別意識を隠しきれない。彼らは客が不快な気分になるかどうかよりも、「おもてなし」をしている自分たちのことを「優しく寛大で優れた人間」だと示したいだけなのだ。『ジャンゴ 繋がれざる者』は、自分たちを「素朴で善良」だと思い込んでいる人々こそ、たちが悪いということを描き、その裏に潜む欺瞞を告発している。


 今回取り上げる『ゲット・アウト』は現代を舞台にしているが、これもまた黒人の青年が白人家庭に滞在するという内容の映画だ。面白いのは、この映画が不気味なスリラー映画のテイストで撮られているというところだ。黒人青年は、謎に包まれたこの屋敷の中で、予想を超えた、世にもおそろしい体験をすることになる。


 本作『ゲット・アウト』は、先の読めないオリジナリティあふれるアイディアと、社会的なテーマの切れ味によって話題を呼び、低予算作品にも関わらずアメリカ国内で爆発的なヒットを達成した。ここでは、主に序盤の展開を中心に、そんな本作が描いたものを掘り起こし、人気の理由を考えていきたい。


 黒人の青年クリスが、同年代の白人の恋人ローズに頼まれて、彼女の両親に挨拶するために二人で彼女の実家へと旅立つところから物語は始まる。クリスは心配そうに「君の両親には、僕が黒人だってことを話してるの?」と訊ねると、ローズは大丈夫だと言う。「そんなこと事前に言う必要ある? ウチの親は人種差別主義者なんかじゃないし、父親だって大統領選でオバマに投票してるんだから」…「(そう言ったって、ひとり娘が交際する相手となったら話は別なんじゃないの? あーあ、憂鬱だな…)」という顔で、クリスは少なからず差別を受けるだろうことを予想している。この時点で、人種的な差別を経験している者とそうでない者の意識の違いというミスマッチが表れているのだが、そこはかわいいローズの頼みだと不満を抑え、クリスはしぶしぶながら実家へとついて行くことになる。


 ローズの実家のある土地に足を踏み入れると、さっそく地元の警官に身分証の提示を要求されるクリス。このエピソードで、ここいらが保守的な土地柄であることが示される。彼女の一家も同様だ。表向きフレンドリーで親しみのある対応をするものの、やはりクリスは何か微妙な違和感を持ってしまう。ぎょっとするのは、メイドや庭師など、黒人の使用人を雇っているという事実だ。これでは南部の奴隷制を容認している、まさに時代錯誤な差別主義者の家庭のようではないか。…ここまで紹介した展開は、まだ序盤に過ぎない。続きは劇場などで鑑賞し、ぜひ奇想天外な物語を体験してほしい。


 ここで、少しだけアメリカの歴史を振り返りたい。リンカーン大統領によって奴隷解放宣言がなされる前、アメリカの諸州は北軍、南軍に分かれ、南北戦争と呼ばれる内戦が起こったことは有名だ。その最も大きい原因は、奴隷制の存続についてである。南部の11の州は、綿花畑など産業において奴隷の労働力に依存していたため、強硬に奴隷解放に反対していたのだ。南北戦争で使われた「南軍旗」は、反差別に対する抗議の象徴として、いまも人種差別主義者の運動に利用されることがある。奴隷が解放されてからも、黒人に同様の労働をさせるという行為は一部で継続され、とくに保守的とされるミシシッピ州では、1960年代まで強い差別的社会が継続していたことがジャーナリストや内部の告発によって全米へ伝えられ、大きな社会問題となった。この経緯は、映画『ヘルプ ~心がつなぐストーリー~』で描かれている。


 そのような「南部の田舎のヤバさ」というのは、高い気温と湿度が喚起させる狂気によってグロテスクに強調され、「南部ゴシック」と呼ばれる系統の小説となった。この流れは舞台作品や映画でも見られ、『欲望という名の電車』や『アラバマ物語』が有名だ。この不気味さがホラー映画に応用されたのが、アメリカの深部に不用意に踏み込むことで大変な事態になるという、『悪魔のいけにえ』や『サランドラ』などである。この系譜に連なるのが、本作『ゲット・アウト』なのだ。本作はこの恐怖を、「自分は黒人の仲間だ」という態度をとる白人への不信感というところに限定したスリラー作品にしたところが特徴的なのだ。


 本作が話題を集めたのは、このような「差別」というシリアスな題材を、きわめてポップに表現したという点においてであろう。「相手は自分のことを本当はどう思っているのか…?」それは黒人だけでなく、誰にでもある普遍的な恐怖である。その根源的な感覚に触れているというのも、本作がヒットした理由だと考えられる。


 この種の作品が難しいのは、描き方を間違えれば、逆に批判の対象として袋叩きにされかねないという部分である。タランティーノ監督の『ジャンゴ 繋がれざる者』も、差別への抵抗を描いてきた映画監督スパイク・リーによって、SNSで批判されている。「アメリカの奴隷がされたことは、(タランティーノが描いたような)セルジオ・レオーネ風のスパゲティ・ウェスタン(マカロニ・ウェスタン)なんかじゃない。自分の先祖はアフリカから誘拐され虐殺されたんだ」というように。


 だが本作は、あくまでもスリラー映画として、シリアスになる手前で踏みとどまっているように思える。そういうバランスになっているのは、本作の監督ジョーダン・ピールが、コメディー番組『マッド TV!』や『キー&ピール』などで活躍した現役のコメディアンであることが大きいように思える。彼のネタのなかには、もちろん人種差別をベースにしたものがある。ピールの芸のなかでは、「酔っぱらったジェームス・ブラウン」というネタが個人的にお気に入りで笑い転げてしまった。これはジェームス・ブラウンがプライベートで事件を起こして保釈された後の、実際のインタビューを基にしているので、考えようによっては不謹慎きわまりないが、そこをポップな表現に昇華できてしまうセンスというのが、TV番組で鍛えられたピールの持ち味であるだろう。


 とはいえ本作は結果的に、痛烈な社会風刺映画になってしまった。それは、人種差別的な言動が絶えないドナルド・トランプという人物が、本作の製作中に大統領になってしまったという事実である。「人種差別は悪いことだ」…アメリカの大部分の国民はそう言うはずだ。しかし、少なくとも半数近くのアメリカ国民が、現実にそんなトランプ氏に票を投じて支持しているのである。アメリカの黒人にとって、そしてアメリカに住む、アジア系を含む有色人種や、多数派でない宗教、文化、趣向を持っている者は、多数派の人々から、いつ「ゲット・アウト(出ていけ)!」と言われるか分からないのだ。その事実は、やはり「恐怖」として映るだろう。(小野寺系)