トップへ

白石和彌監督『彼女がその名を知らない鳥たち』の“鳥”が意味するものーー驚くべき二面性を読む

2017年11月01日 10:03  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 彼女がその名を知らない鳥たち、そして私たちもまたその名を知らない鳥たち。ここで言われている「鳥」とは一体何のことなのかーーそんな問いに思いを巡らせながら邂逅する物語が、本作『彼女がその名を知らない鳥たち』である。


参考:蒼井優、恋愛依存の女から四川料理店員まで “クセの強い役”でインパクト残す


 年の離れた陣治(阿部サダヲ)と暮らす十和子(蒼井優)は、不潔で下品な陣治を嫌悪しながらも、陣治の稼ぎに頼るしかない爛れた関係を続けている。彼女は過去の恋人である黒崎(竹野内豊)なる男を忘れることができずにいるが、どこか黒崎の面影を感じさせる水島(松坂桃李)に蠱惑されると、たちまち不倫関係に陥ってしまう。そんなある日、黒崎が5年前に失踪した事実を知った十和子は、自分に執拗につきまとう陣治に疑惑がわく……。


 自分の居場所はここではない、と思いながらも惰性で身を委ねてしまうというような経験を、誰もがきっと一度はしたことがあるかもしれない。それがとりわけ自分の力だけでコントロールし得ない恋愛においてなら尚更であろう。十和子もまた、陣治のような人間は自分には相応しくない、と存在しない幻影を追い求めて隘路に迷い込んでしまったひとりである。


 同じく映像化された、本作と同作者である沼田まほかるによる小説『ユリゴコロ』では、ある罪を背負ったひとりの女性の狂気的な物語である前半から、彼女を取り巻く人々による温かい愛の物語へと姿を変える後半へ、二面性を持つ人間ドラマが描かれている。本作もまた、最低な人間たちの卑しさを前にして募りに募った不快感や嫌悪感が、衝撃の展開を迎える終盤で一挙に感動へと感情の転換を巻き起こす作品に仕上がっている。


「なぜいつもカラスしかいないのだろう? カラスではない鳥たちはみんな、どこへ行ってしまったのか?」


 原作では、カラスの黒い影に取り憑かれる十和子の姿が執拗に描かれる。その黒い影はちょうど陣治に向けられた十和子の疑念とリンクするように、不吉さを醸し、潜む攻撃性や異様な恐怖を提示する。それは、かのアルフレッド・ヒッチコックによる『鳥』(1963年)における「鳥」たちが纏っていた負のイメージと近しい。実際、映画は失踪した男の行方と疑惑の男というサスペンス的な緊張感が支配する。しかしある展開を迎えると、物語の中の「鳥」は、モーリス・メーテルリンクの寓話『青い鳥』で幸せの象徴とされていたその「鳥」へと変身を遂げる。この「黒い鳥」から「青い鳥」への変貌は、まさにこの物語の驚くべき二面性を象徴する。


 本作は『凶悪』(2013年)、『日本で一番悪い奴ら』(2016年)などを手がけた白石和彌監督の手腕による優れた映像表現で溢れているが、その中でも白眉なのは最後に待ち受ける仕掛けに向けて巧妙に操られた、落下の表象である。たとえば、十和子と水島が情事に耽る部屋の天井から零れ落ちる砂。十和子のためにと買ってきた陣治の潰れてしまったクリームパン。黒崎の失踪を聞かされ動揺した十和子が落とした柿の種たち。陣治が電車で突き飛ばした若い男……。落下を見下ろすという十和子の上下運動が伏線となって繰り返される。


 原作の終盤には、陣治が「小鳥でも逃がすようにそっと(十和子の)指をほどく」といった描写がある。「小鳥」という符牒によって強調されるのは、「親鳥」としての陣治の姿である。カラスに似た黒崎と水島。そして、親鳥のような陣治。おそらく陣治、黒崎、水島の3人の男たちを体現しているのであろうラストに映る3匹の鳥は、次のショットでひとたび無数の鳥になる。なぜなら愛とは、無数の感情の総和だからである。陣治と十和子を引き離すことをしなかった蝶番の正体である。愛とは慈しみであり憎しみでもあり、快さであり不快でもあり、幸福であると同時に不幸であることでもある。


 そしてこの無数の鳥の飛翔の瞬間は、落下してゆく幾つかのものをただ見下げていた十和子が、遥か上方を仰ぐ瞬間である。それはまさに親鳥から与えられた餌で身体を肥やし、愛を覚えはじめたばかりの雛鳥の姿と重なり合う。泣いているようにも、鳴いているようにも見える。


 陣治がまさに“身を挺して”掲げたものが愛でないのだとしたら、そうでないのなら、もう他の何も愛ではないのだ、と告げるかの如く鳥たちは飛び立っていく。そんな鳥たちの行方を、私たちは夢想し続けるほかない。(児玉美月)