トップへ

荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第8回:カルチャーの“空間”からヒップホップの”現場”へ

2017年10月29日 23:52  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 日本でスネークマンショーがThe Sugarhill Gangの「Rapper’s Delight」をラジオ番組でカバーした翌年の1981年、ニューヨークのポップ/ロックバンド、Blondieが「Rapture」という曲をリリースした。ディスコ/ファンクを意識した“歓喜”というタイトルのこの曲の途中、ボーカリストのデボラ・ハリーが今では有名なラップを始める。


 <Fab Five Freddie told me everybody’s high / DJ’s spinnin’ are savin’ my mind / Flash is fast, Flash is cool>と歌うこのラップには、当時は誰も知らないだろう、映画『ワイルド・スタイル』にその後出演するFab Five FreddyとGrandmaster Flashの名前が登場する。また、いとうせいこうの「東京ブロンクス」と同じようにSF仕立てで、エイリアン・アブダクションについてのリリックが並ぶ。ちなみに、変身した人間が車を食べる場面に、リンカーン、キャデラック、マーキュリーに並んでスバルも出てくる。ラップの最後の部分<I said don’t stop, to punk rock>は、藤原ヒロシと高木完のTINNIE PUNX「Do The Punk Rock」という曲のモチーフの元になった。「Rapture」はラップを使った曲として、はじめてアメリカのチャートの1位を飾った。


 1982年にリリースされたマルコム・マクラーレンのスクラッチを使ったサウンド・コラージュ的な怪作「Buffalo Gals」の背後に、マクラーレンのいわゆる1968年の思想と経験の大きな影響があったことについては前回に記した。(参照:http://www.realsound.jp/2017/10/post-116743.html


 同時代の1960年代の終わりから1970年代のはじめにかけての東京も、当然、その後のカルチャーと音楽へ大きな影響を与えた。ここでは、それを実際/想像のうえでの、空間の構築を試みることとする。


 イアン・コンドリーは1990年代の日本のヒップホップでの“現場”ーークラブ、パーティ、サイファー、etcの重要さを分析した。日本のヒップホップを、リリースされた楽曲のサウンドやリリック(歌詞)といった面だけでなく、実際にラッパーやDJがどのように具体的な場でパフォーマンスしたのかをコンドリーは重要視したので、その見方を踏襲するなら、その“現場”は、日本にヒップホップが定着する以前にどのようにあったのか。当時、どのようなカルチャーの“空間”があり、それがどのように日本のヒップホップの“現場”へと変わっていったのかに着目したい。


 菊竹清訓、黒川紀章ら建築家たちに粟津潔という突出したグラフィックデザイナーを含むメタボリズム・グループのメンバーは、1960年、「METABOLISM /1960 – 都市への提案」というマニフェストを発表し、1970年には、桁外れの“祝祭の空間”ーー「EXPO 70」に深く関わった。その2年前には、磯崎新、伊藤ていじら都市デザイン研究体による『日本の都市空間』が出版されていた。


 高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之らのハイレッド・センターがギャラリーや美術館から公共空間へ出た60年代半ばあと、68年には関根伸夫の野外作品の制作をきっかけに戦後日本の代表的なコンテンポラリー・アートの運動「もの派」が生まれたが、ここでの“もの”は、オブジェクトだけではなく、彼らは環境や状況を含む“知覚の領域”を塗り変えていくことも指向していたとされる。


 唐十郎の「状況劇場」は67年、新宿花園神社境内に巨大な紅テントを建て、69年にはゲリラ的にテントを新宿西口の新宿中央公園に設置し演劇『腰巻お仙・振袖火事の巻』を行った。劇団「天井桟敷」の寺山修司は1967年に『書を捨てよ、町へ出よう』と題した評論集を出版し、のちの75年には『ノック』という都市空間の裡での演劇、すなわち「市街劇」を試みた。


 2017年10月15日まで東京都写真美術館で行われていた「エクスパンデッド・シネマ再考」は、当時の通常のフィルム上映から拡張し映画館というあり方からずれていくことを厭わない実験映像の流れについての展示である。足立正生、佐々木守、原将人、松田政男、そして若松孝二らの「風景論」についてはまた触れる。


 1960年代の最後の数年にはフォークが大学を舞台に花開く一方、別の流れが新宿駅西口地下広場といった新しい都市空間に肩を押されるように出ていった。フォークミュージックと政治的な抗議のために西口地下広場に集まっていたその人々は、69年夏前には数千人にまでとなって車路から地上の噴水まで及んだが、7月19日、動員された2,500人の機動隊により排除された。


 この当時のフォークの風景を主要な題材のひとつに使ったのが、大島渚の監督映画『日本春歌考』(1967年)だ。1968年、フランスの「五月革命」の騒乱に影響を受けた東京の学生たちから始まった、6月からの東大医学部全共闘らによる安田講堂というシンボリックな空間の占拠、もしくはその間の東京・お茶の水周辺での日本大学、中央大学、明治大学の学生を中心とした「神田カルチェ・ラタン闘争」については先に記した。(参照:http://www.realsound.jp/2017/07/post-96025.html)後者で2,000人程度だった彼らが神田の公道に築いたバリケードとは、即興的に都市のなかに敵対する勢力に対抗する空間とされ、この断続的な“闘争”で2,000mに及ぶ“陣地”が作られることもあったという。1969年、全共闘(全学共闘会議)による大学の騒乱は全国170校弱にまで及んだ。


 なにより「五月革命」の翌年、1969年、東京で、大瀧詠一、鈴木茂、細野晴臣、松本隆らによって、バンドとして、またコンセプトとしてのはっぴいえんどによって作られた、ひとつは“風街”という架空の、もうひとつは「風都市」という実際に存在した集団/空間があった。


 4人のアーティストがその空間に飽き足りてレコーディングした3rdアルバム『HAPPY END』の最後、繰り返し繰り返し歌われる<さよならアメリカ/さよならニッポン/バイバイ バイバイ/バイバイ バイバイ>という言葉とリズムと共に、「風街」は消えていった。


 そのあと、ジャンルと呼ぶには曖昧で幅広い「シティ・ポップ」と呼ばれる音楽が、日本全体の(音)空間を満たしていく。ここでは、松本隆がプロデュースし全曲歌詞も書いた、南佳孝の傑出した『摩天楼のヒロイン』(1973年)をその始まりのひとつとし、シティ・ポップこそが、1980年代のポストモダン的なカルチャーの趨勢において、正しくはっぴいえんどの後継者だと強調したい。しかし、ここで要約するには、1980年半ば以降までの日本のポップ音楽を幅広く支配するこの動きは、あまりにも大きい。


 そのかわり、そのありかたと密接にあった1970年代半ばから80年代始めまでに浮上してきた音楽の“聴き方”、または音楽を消費する特徴的な態度について次にとりあげよう。


 太く弾むプレイで有名なファンク・ベーシスト、Graham Central Stationのラリー・グラハムのソロ、1981年の「Just Be My Lady」は、5分足らずの間に彼の太く低い声で<Just be my lady>と10回呼びかけ、最後には“私のレディになってくれ、私のものに”とダメ押しが4回繰り返されるバラードだ。


 今は政治家であり、時代の寵児だった作家の田中康夫は、彼の4冊目に出版された本、1984年の『たまらなく、アーベイン』で、この曲を紹介するために、日本の郊外にあるホテルに文句をつけるところから始める。「…それに比べると、パリやフィレンツェの郊外にある、その手のホテルって、いい雰囲気。モネの絵に出てきそうな川のほとりにあって(中略)ダンスの出来るフロアもあったりで…」と、それはヨーロッパのホテルの話になり、オー・ド・トワレのつけかたの指南が続き、ついに彼はフィレンツェのレザー・ブランド、ゲラルディーニのウォモ・ゲと女性用ではドンナを読者に薦める。


 Alessiからグレイス・ジョーンズまでを含む100枚の(当時ゆえ、アナログの)レコード盤についてのレビューという形式を借りたこの本のタイトル“アーベイン(urbane)”とは、上品で洗練されたマナーを意味し、あとがきで彼は「…一貫してエンプティなドラマを描いてきた」自分が「小説以外のジャンルで、その追求をした」のだと記す。100曲の“アダルト・コンテンポラリー、ブラック・コンテンポラリー”をそれぞれ聴いたらぴったりくるシチュエーションを通じて紹介するというこの本の、目黒区八雲から首都高速葛飾川口線まで主に東京のなかを移動する、ばらばらで、中心のない、延々と続く色恋の“アーベイン”なエピソードは、遥かに洒落本を貫く。


 執筆の前の数年間に渡って7,000枚のレコードをコレクションにしたという田中康夫によると、過去のジャズやロックと異なり、「アダルト・コンテンポラリーやブラック・コンテンポラリーは、誰もが否定し得ないまでに成長した豊かな物質社会という、私たちが暮らしている目の前の現実を、あるがままに受け入れている(あとがき)」音楽だという。彼はこのことを厳しく意識し音楽を峻別する。当時より過去の音楽だけでなく、それゆえビリー・ジョエルをこの本の世界を作る空間から名指しで排除する。「…目の前の現実を、あるがまま…」。


 指摘しておきたいのは、まず、大袈裟なようだが、この本のなかで反復される100余の風景のように、時代の求心的な力として、音楽は、人と場や異なったカルチャーの領域を接続することにより私的/公共的イベントを創造し更新していたということ。


 ふたつめに、そのとき、ガイドブックという『たまらなく、アーベイン』の体裁を離れても、実際にその接続と創造の核にあるのは作曲家でもなく演奏家でもなく、むしろ音楽の作り手自体よりも、(プレイされる)レコードであるということ。


 最後に、田中康夫のいう「僕たちの信じられるもの」であり「確実にその時代のプリベイルな気分」を生成するその音楽とは“アダルト・コンテンポラリー、ブラック・コンテンポラリー”のかなりの部分を占めるダンス・ミュージックでもあるということ。


 はっぴいえんどの『風街ろまん』とキャロルやクールスの衝撃から10年余、1970年代初頭にはまだ青山や白金にも残っていた戦後の雰囲気は消失し、1980年代の東京は、ポストモダン建築のメッカになっていく。その一翼を担っていたのも、ニューヨークの巨大なダンスの神殿として喧伝されたパラディアムやロキシー、それにダンステリアなどを倣って東京や大阪に出現していった一群のディスコやバーだった。


 1966年にはディスコは新宿に一軒しかなかったが、『たまらなく、アーベイン』にもひんぱんに“ディスコ・パーティ”やそれに替わる“ナイト・クラビング”という新しい単語が登場する。そんなひとつ、Shalamarについてのテキストの最後の部分においてはこうある。


「…また、スクラッチ物を集めたStreet Soundsのアルバム、Electro、同じくスクラッチ物のグループ、フリーズのGonna Get You、ご存知、ハービー・ハンコックのRockitが入ってる83年のアルバム、Future Shockも揃えておくと、なるほど、スクラッチ全盛の時代もあったのかと、そのうち、懐かしむことが出来ますーー」


 次に日本のヒップホップのための現場の原型としてのディスコ/クラブを振り返る。(荏開津広)