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トム・クルーズの狂騒がキラキラと輝くーー『バリー・シール』が描き出す、アメリカの病理

2017年10月28日 10:03  リアルサウンド

リアルサウンド

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 大手航空会社のパイロットからCIA秘密作戦のパイロットに転身、その任務のかたわら、密かに麻薬組織ともつながって密輸を繰り返し、大富豪になってしまったという実在のアメリカ人男性、バリー・シール。その波乱万丈過ぎる顛末を映画化したのが、本作『バリー・シール/アメリカをはめた男』だ。


参考:ダグ・リーマンの父親はバリー本人が関わった事件の捜査官だった? 『バリー・シール』にコメント


 トム・クルーズは、是非ともこのバリー・シールを演じたいと切望し、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』の監督ダグ・リーマンと再びタッグを組み実現させた企画が本作であるという。それも納得してしまうくらい、この役はトム・クルーズの俳優としての特性が絶妙にマッチし、作品を優れた娯楽作にすることに大きく寄与していた。ここでは、そんな本作が描いた真実を、できる限り深く掘り出していきたい。


 あらためて考えてみると、トム・クルーズは奇妙な俳優である。笑顔が印象的な甘いマスクと驚異的な身体能力、嫌味のないユーモア。彼が演じる役の多くはまさに「理想化されたアメリカのナイスガイ」の見本といえる。ときおり冷酷な殺し屋役に挑戦するなど変化をつけながらも、50歳代半ばにして、このようなさわやかな役をいまだに演じ、アイドルのようなスマイルを見せているというのは、そこに観客の需要があるからだろう。


 新作が公開される度に多くの観客が 「トムももう年だからなあ…」と思っても、実際に劇場に足を運んで彼の演技を見ると、やはり魅了されてしまう。それは次々に現れる若手俳優の持ってない何かを彼が持っているからだ。


 『ミッション:インポッシブル』シリーズの撮影で壁に激突し、骨折したように、トムは危険なスタントを自身が演じることで知られている。飛行機を使ったシーンの多い本作でも、それは同様だ。近年ではCG技術など、ポストプロダクション(撮影後の作業)の進化によって、アクションスターは必ずしもリスクをともなうアクションシーンを演じる必要がなくなってきている。そういうなかにおいて、あえてリスクを引き受ける彼の「狂気」のようなものは、スクリーンを通してたしかに伝わってくるように思える。トム・クルーズの演技の裏には、近年のハリウッド映画では希薄になりつつある異常な熱気がこもっているのである。『マグノリア』で演じた、狂気を感じるナンパ師セミナーの教祖役というのは、そういった面から考えると、はまり役であったといえよう。


 ただ、ここで触れなければならないのは、本作では、撮影の中で飛行機が墜落し、スタッフが死亡する事故が起きているという事実である。こういう事態が起きてしまったことは、このような本物にこだわる姿勢が要因のひとつとして考えられ、トム自身もリスクを引き受けてはいるとはいえ、現代において、あえて危険を冒す撮影方法の是非については、また別に議論しなければならないと感じる。


 本作で印象的なのは、バリー・シールが密輸の仕事を次々にこなして得た違法な報酬があまりにも莫大なため、その処置に困るという場面である。彼は地元のあらゆる金融機関に、大金を可能な限り預けまくり、銀行はあまりの額が預けられるためにバリー・シール専用の大金庫を作る。それは、他の預金者全ての金を集めた金庫よりも大きかった。そんなバリーが住んでいることで田舎町全体の景気は潤いを見せていた。


 こういった異常な状況というのは、密輸を依頼した麻薬犯罪組織「メデジン・カルテル」が原因である。そのリーダーとなるパブロ・エスコバルは、密売の稼ぎによって世界で7番目の金持ちに番付けされ、私設の軍隊を持ち、自宅に飛行場や動物園などを建設、サッカーチームのオーナーにまでなっており、街の名士として地元では讃えられていたのだ。その収入に直接関わるバリーが富豪になるのも当然だ。人々を不幸にする違法行為での稼ぎにも関わらず、金を持っていることで尊敬されてしまうという、狂った状況である。本作では、悪事を描いているとは到底思えないほど、バリーの異常なビジネスをキラキラと輝くように表現しており、トム・クルーズもいきいきと、この狂騒を演じている。ここにおいて、やはりトムは適任であったといえる。


 映画『20センチュリー・ウーマン』や、アニメ『FはFamilyのF』などでも描かれていたとおり、本作の舞台である70年代のアメリカは、「男は男らしく、女は女らしく」という父権的な思想がまだまだ根強く、さらに70年代から80年代へと移り変わる境目においてカーターからレーガンへと大統領が代わることで、「強いアメリカ」を目指す保守的な思想にアメリカは大きく傾いた。その流れは、「メイク・アメリカ・グレイト・アゲイン(アメリカを再び偉大な国へ)」を標榜して大統領選に勝利し、「レーガンの再来」とも言われるドナルド・トランプの、復古的な方向へ梶をきっていく現在のアメリカの状況に呼応している。この時代を見ることは、現代を見ることでもある。


 このような「強い我が国(富国強兵)」という価値観のなかでは、軍事力や経済力、実務的スキルや、権力とのコネを持った「強者」がより存在感を持つ。バリー・シールは、メデジン・カルテルという犯罪組織に踊らされ、ロナルド・レーガン体制下では、逆に組織を壊滅させる作戦のためにまた便利に利用されることになる。


 たしかに、国内を麻薬で汚染されることは阻止しなければならない。だが、メデジン・カルテルが武装組織に成長したのは、本作で描かれるとおり、もとはといえばアメリカの代理となる軍隊を他国で育てるという目的で、政府が大量の武器を国外へ輸出したからである。その武器がアメリカを汚染するメデジン・カルテルに流れていたのだ。


 バリー・シールは、たしかに違法行為に手を染めるならず者であるが、そんな彼をすら、強権的な国家は利益を守る道具として使う。アメリカはバリー・シールの上をいく「あくどさ」を持って、世界の覇権を握ろうとしていたのだ。であれば、ひたすらに利益を得ようとするメデジン・カルテルとアメリカ政府に、本質的な違いがあるだろうか。彼らは互いに手段を選ばず、より多くの利益を得て、より大きな力を得るために行動している。その権力抗争の間で右往左往し、狂奔させられ踊り続けた男がバリー・シールだった。本作は彼の物語を追うことによって、このアメリカの病理を描くことに成功しているのだ。(小野寺系)