インターネットはここ10~20年のうちに一気に普及した。老若男女がネットを使うようになって、どんなキーワードが多く検索されているのかばかりが注目されるようになり、いわゆるキュレーションサイトがこの数年で爆発的に増えていった。
気になるワードを入力すれば、素人ライターが薄給で書いたSEOを意識したとしか思えない情報がすぐに上位にヒットする。それはそれは便利な時代が訪れたものだ。
しかし一方で、インターネットが徐々に広まりつつあった時期に目立っていた、毒にも薬にもならない個人サイトや、得体の知れないアングラサイトを見かけることがほとんどなくなってしまった。(文:松本ミゾレ)
お役立ち情報なんかクソ食らえ!もう一度どうしようもないインターネットが見たい!
先日、はてな匿名ダイアリーに面白い投稿がアップされていた。「どうしようもない人間のどうしようもない日記って見かけなくなったよね」と題された投稿がそれだ。
今より少しだけ昔、それこそネットがまだ若干敷居が高く、携帯電話でアクセスしようものなら莫大なパケット料金が請求されていたような頃。ネットの世界にはどうでもいい個人の日記のような体裁で、どうでもいいアニメや映画の感想を妙に偉そうに語る個人サイトというのが多かった。
しかし昨今ではそういったものがなかなか見かけない。SNSがその代用となったのではないかと、投稿者は推察している。ただ、この人物は「SNSにあるのは何かが違うんだよ」と主張しているのだ。
具体的には、SNSにそういう感想をアップされているのを見ても、彼の求める「どうしようもない人間の書いた文字情報」という匂いがしないと感じているようだ。
素人が家にこもって、HTMLをいじって日記をアップしていたというような、まだユーザーがそんなに多くなかった頃の、ネットユーザー同士の微妙な距離感。どうやら投稿者はそれが恋しいようだ。
1990年代~2000年代初頭のネットの薄暗さが恋しい人々は少なくないのでは?
ほんの10年、20年前のネットって、今のように明るい情報が飛び交うようなものではなかった。まだネットがそこまで一般的でなかったので匿名の掲示板にこそ人は多かったが、それ以外は基本的に閑散としていた。それが何となく居心地が良かった記憶がある。
ニコニコ動画もなければ、YouTubeもあったかどうかの2000年代初頭。情報は得にくかったが、よくよく探せば色々なものが見つかった。ネットに親しむようになったのが、ここ数年という人には、この感覚はなかなか理解しにくいと思う。
当時のネットの妙な薄暗さや、知りたい情報を掘っていくと、同時に見てはならないものも掘り当ててしまう、視覚的な暴力性の強い側面。それから、読み込んでも何の足しにもならない個人の長文の日記は、実際に体験してみないとよく理解できない。まあ、理解しても一切得しないんだけど。
ただ、投稿者に賛同する声もないわけではない。
" 冒険者たちは松明を手に洞窟をさまよった、やがて焚火を囲うようになり、洞窟は住居となった"
"SNSの普及でこのような気持ちを抱く人は多いと思うし、孤独はむしろ深まったと思う。
もうどこにも本音を吐き出せない。SNSは適当に放置して、ネット落ちするしか解決策はないのかな"
"みんな心の中にあるんだね。あの頃のこと"
これらの感想を寄せた人たちは、きっと"あの頃"のなんとも言えない、妙な雰囲気のネットが今も忘れられないんだろう。
「はてな匿名ダイアリー」の投稿者の「俺が求めているのはもっと離れた距離感での交信なんだ」という主張の一文を見て、言わんとしていることは僕もよく分かる。
そうだ。今のインターネットではつながりがやけにプッシュされる要素になっている。何かにつけて「いいね!」を押させようとしたりするのもそれだ。
僕は2004年頃から細々とネット上に日記を書いているが、気付けば複数のSNSの「いいね!」バナーがいつの間にか、最初からそこにあったかのように設置されている。そういうものじゃないのだ。僕は恐らくこの投稿者と同じ想いを抱いている。
点と点とがつながり合って線になるような今のネットの世界じゃなくて、点自体はそこそこあるけど、それぞれが等間隔で寂しそうに存在している。そういう環境が恋しいのだ。