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有村架純の「まなざし」と松本潤の「言葉」が行間を埋めるーー映画『ナラタージュ』の文学性

2017年10月16日 12:22  リアルサウンド

リアルサウンド

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 降り注ぐ雨の音、打ち寄せる波の音、川のせせらぎ……耳をすませば、世界の「見え方」そのものが変わってくる。そんな体験は無いだろうか? 人間の感覚とは不思議なもので、聴覚に意識を向けると、それにともない視覚も冴えわたってくるようだ。耳をすますことによって、普段見過ごしがちな景色や物、あるいは人間の表情が、より豊饒な意味を湛えながら、ゆっくりと目の前に立ち上がってくるような感覚。『ナラタージュ』を観ながら、そんなことを考えた。なぜならこの映画は、ある意味「音」の映画とでも言うべき一本だから。


参考:「松本潤のイメージをぼかしていくことから取り掛かった」 行定勲監督が明かす『ナラタージュ』の役作り


 作家・島本理生が20歳のときに書き下ろした同タイトルの恋愛小説を、行定勲監督が10年越しで映画化に漕ぎつけたという『ナラタージュ』。「ナラタージュ」とは、「ナレーション」と「モンタージュ」を掛け合わせた言葉であり、ある人物の語りや回想によって過去を再現する手法を意味するという。物語の舞台を東京から水辺の街・富山県の高岡市に移すなど、原作小説からの変更点はいくつかあるものの、いちばん大胆な翻案は、この物語を3人の登場人物の「関係性」のみに絞った点であろう。


 ごく普通の女子高生から地元の大学に進学し、現在は東京で映画の配給会社に勤務している主人公・工藤泉(有村架純)。そして、彼女が高校時代から思いを寄せている教師であり、所属していた演劇部の顧問でもある葉山(松本潤)。さらに、泉が演劇部の手伝いで葉山と再会した大学2年生のときに知り合い、いつしか彼女に好意を持つようになる同い年の大学生・小野(坂口健太郎)。「ナラタージュ」の名の通り、本作の物語は、現在を起点に、泉の高校時代、そして大学2年生の頃という2つの時間軸を行き来しながら、回想形式で描き出されてゆく。


 小説と映画の根本的な違いとして、「行間」の持つ意味の違いがある。小説を読む際、「時間」は関係しない。読者は、その「行間」を心ゆくまで味わうことができる。しかし、「時間芸術」とも言われる映画の場合、そうはいかない。台詞と台詞のあいだに広がる「時間」。ときに何も動かないし変わらない、そんな「無」の時間であるはずの「行間」に、どれだけ豊饒な意味を与えることができるのか。映画の「行間」を埋めるのは、言うまでもなく役者の芝居であり、監督の演出である。


 まず、心奪われるのは、主人公・泉を演じる有村架純の「まなざし」だ。高校時代、ほのかな恋心を持ち始めた葉山にチラリと投げかける視線。絶望の淵から、すがるように葉山を見つめるその瞳。あるいは大学時代、スッと視線を上げて葉山を毅然と見据えるその「まなざし」に宿った、確かな意志と覚悟。決して派手な動きがあるわけでも、声を荒げて泣き叫ぶわけでもないのに……「まなざし」とは、これほどまで多くのことを語るものなのか。そう思わせるに足る力が、彼女の「まなざし」には存在する。そして、その瞳に宿した静かな光によって、観客は一見おっとりとしたように見える彼女の芯の強さと、その内側に秘めた「熱情」を知るのだ。


 そんな彼女が思いを寄せる教師、葉山を演じる松本潤もまた見事だった。普段、テレビや映画などで見せる彼のキラキラとした輝きは、本作のなかで極力抑え込まれている。凛々しい眉を隠すように垂れた前髪と、目力をぼやかす眼鏡。肩の落ちたシャツをタックインしたその風貌は、必ずしも魅力的なものとは言えない。けれども、目を凝らせば、やはり「松潤」なのである。甘いものを口にしながら少年のように笑う彼のなかに、時折見せるその寂しげな表情のなかに、かけがえのない「何か」を見出すのは、泉だけではないだろう。そして、他の生徒たちは誰も知らない、彼の悲痛な過去。「わたしだけが、それを知っている」。その思いを共有することによって、泉と観客は、いつしかある種の「共犯関係」を取り結ぶことになる。


 「ナラタージュ」とは言うものの、決して台詞が多い映画というわけではない。むしろ、ナレーション(とりわけ説明的なナレーション)は最小限に抑えられ、会話の言葉数も、驚くほど少ない映画と言えるだろう。しかし、彼女たちの会話は、目の前の誰かに向けて発する「言葉」には、その前後があることを、改めて観る者の心に思い起こさせるのだった。相手を見つめながら、胸に去来した思いをようやく「言葉」として発する。あるいは、誰かの発した「言葉」に対してひとしきり思いを巡らせあと、静かに発せられる「言葉」。それは泉だけではなく、葉山もまた同様である。感情を言葉にすることを得意としない彼が発する言葉は、どこか胡乱としていて、いつも的を射ない。挙句の果てには、「ごめん」と言って、自らの言葉を否定する始末である。そんな彼の「言葉」を、一体どう受け止めればいいのか。それとも、本当は別のことを考えているのだろうか。泉の心は、いつも穏やかでない。


 繊細に揺れ動く「まなざし」と、ゆっくり静かに発せられる「言葉」。ともすれば、見過ごしがちなそれらのものに観客の意識を向けるため行定監督が用意したのが、冒頭に挙げた「音」の演出である。携帯電話の呼び出し音から始まり、親友、それも子どもを産んだばかりの親友の声、電話の向こうから聞こえてくる赤ん坊の泣き声、そしていつからか聞こえ始める雨の音……そのオープニングから、「音」の演出は周到に用意されている。そう、この映画、実は携帯電話で話すシーンが相当多いのだけど、それも意図的なものなのだろう。電話ほど相手の「声」だけに意識を集中させる機会は、日常ほとんど無いのだから。そして、回想を繋ぐ雨の音から、打ち寄せる波の音、川のせせらぎ、出しっぱなしのシャワーの水音、唐突に訪れる無音……ときには、見知らぬ男性が転がすキャリーバックのゴロゴロとした恐怖の音演出まで。観客はいつしか耳をそばだてながら、画面から聞こえる「音」に意識を傾けてしまうのだ。耳をすませば、世界の「見え方」そのものが変わってくる。なるほど、これぞ「映画」というものだろう。


 ちなみに最初は、泉の気持ちをどこかで感じていながら、いかにも大人な態度でそれをはぐらかし、けれども深夜に突如電話を掛けて弱音を吐いたり、自身の悲痛な過去を告白することによって泉の心を翻弄する、葉山の無意識の「狡猾さ」が気になった。けれども、泉の前に小野という人間が現れ、彼女に対する好意を態度で示すようになるにつれ、泉の「狡猾さ」も徐々に顔をのぞかせてゆくのだった。「小野くんは、わたしのどこが好きなの?」。その答えに確信が持てないながらも、そんな彼の「愛」に何とか応えようとする泉。しかし、それは果たして「愛」と呼べるのだろうか? 「愛するよりも、愛されるほうが幸せ」……そんなふうに人は言うけれど、わたしは愛されるよりも、愛したい。でも、愛したからには、やっぱり愛されたい。無論、それは小野だって同じである。まるで鏡合わせのように、お互いの姿を映し合う2人の関係性。


 とはいえ、小野もまた小野である。当初は、泉に対する好意を、若者らしい真っ直ぐな言葉と行動で示していた彼は、泉の心のなかに棲み続ける葉山の存在に心を乱され、いつしか自らの内面に眠る暴力性を統御できなくなってしまうのだ。笑いながらキレる坂口健太郎。豹変する小野の態度に動揺しながらも、そんな彼の直截的に「愛を乞う」態度によって、自らのなかに眠る葉山への思いに気づいてしまう泉。それは、あまりにも自分本位であるようにも思える。そう、この映画が、通常の「恋愛映画」と異なるのは、「恋愛」というものの内実にある、自己本位性や利他性、共依存、あるいは打算や保身など、誰もが心の片隅に持っている感情を、ごく自然な形で露呈させている点にある。しかし、そんな「恋愛の内臓」ともいうべきリアルを抉り出した先にあるのは、より実存レベルの痛切な「思い」なのだった。「わたしには、あなたでした」。この言葉が本当に意味するものとは何なのか。そして、最後の最後に葉山が吐露した、泉に対する本当の「思い」とは。けれども、そのすべてが明らかになってもなお――否、むしろ、そのすべて明らかになったからこそ、その「思い」は、彼女の生涯において不変の輝きを放ち続けるのだった。


 そう考えると、この映画は果たして本当に「恋愛映画」と呼べるのか?という疑問も湧いてこなくはない。むしろ、3人の登場人物が、それぞれの「青さ」を露呈しながら、少しずつ誤った言葉や行動でお互いを傷つけあう……そんな「青春の蹉跌」を描いた映画であるようにも思える。否、もちろん、これは間違いなく「恋愛映画」なのだろう。しかし、この映画が射程するのは、「一生に一度の恋」云々ではなく、「誰かに“救われた”経験のある人すべて」なのではないだろうか。それは何も、男女の「恋愛」に限らない。今は傍にいない「あの人」がいたからこそ、今のわたしが在る。確かにそう言い切れるような「あの人」を思い出すことは、たまらなく甘美で……今を生きる「よすが」となるものなのだから。女性はもちろん、男性諸君にも、是非スクリーンで味わってもらいたい一本だ。(麦倉正樹)