僕の知人には、何人かブラック企業に勤めている人がいる。彼らは日々酷使され続け、心身ともに病んでいることが多い。僕は「そんなどうしようもない職場なんか捨てて、転職すれば?」と言うんだけど、なかなか辞めない。
「今の職場を離れたら、転職に不利になるかもしれない」なんて言葉を吐いて、苦しそうな表情をして、今日も満員電車で通勤する。(文:松本ミゾレ)
ブラック企業社員「きっと誰かが見てくれている。いつかはそれが評価される」
苦しんだら苦しんだ分、いつか報われる!そういう宗教めいた考えなんか捨てちまえ!誰もお前を見ていない!
世の中にはホワイト企業だっていくつもある。ホワイトとは言えないまでも、真っ当な職場だって数多ある。それなのにどうしてわざわざブラックなんかの奴隷になる人間がいるのか、理解できない。
あるときその素朴な疑問をブラック企業で働く彼に投げかけたら、こんな答えが返ってきた。
「陰での努力は、きっと誰かが見てくれている。いつかはそれが評価されると思うんだ」
そんなことがあるなら、もうとっくにある程度評価されていなくちゃ割に合わないだろうに。
第一、世間で評価され、努力をしていると認められた人々はみな、その努力する様を第三者がしっかりと確認して評価している。誰も見ていないようなところで苦労をしても、誰も評価してくれない。
「神様が見てくれている」みたいな抽象的な、ぼんやりとした思考停止に近い希望的観測のもと、毎日死にそうになりながらする努力。そんなもんが果たして本当に報われるだろうか?
今の時代、みんな自分のことで精一杯だ。ましてブラック企業の従業員なんて、なおのこと他人のことをしっかりと評価する余裕もないはず。そういった環境でいくら頑張ってみたところで無駄だ。
「たかが仕事」と考えることだってできるはず
ちょうど先日、2ちゃんねるで「日本人の『辛く苦しんだ分だけ報われる』っていう考え方ww」というスレッドが立っていた。スレッドを立てた人物は「大嫌い。人をコマのように扱う世の中」と書き込んでいる。全くもって同感だ。
スレッドには賛同の声も多く書き込まれている。いくつか紹介してみたい。
「苦労をしない方向に持ってくのが悪みたいな風潮があるね 」
確かに、ある。この国ではいかに効率的に稼ぐかとか、いかにストレスを溜めずに働くかよりも、いかに額に汗して、涙を流して必死で働くかが重要視されているきらいがある。
「報われるべきだとは思うけど、本当にその辛苦は受けなければならないものなのか。もっと楽に同じ結果出せる方法があるんじゃないかなと感じる事は多い」
もちろん、苦労が全く無駄とは思わない。思わないが、ブラック企業での苦労は完全に無駄だ。苦労にも意味があるものと、そうでないものがある。
こうした声の一方で、「正しい苦労か無駄な苦労かが分かるのは何年も後の話だよ」という意見も出ていた。
分かるような分からないような、良い言葉のような、無責任なような……。正しい苦労とそうでない苦労の違いも分からない人が多いから、日本はバカみたいなブラック企業が蔓延ってるんじゃねえの? という気しかしない。
無駄な努力をして死にそうになっているブラック労働者が現実に存在するのは事実だ。結局いいように搾取されるだけなので、苦労の質を考えずに、無思慮に努力なんかしても意味はない。
辛い目に遭って苦しんだだけ、いつか報われるなんて、そんなのあるはずがないじゃないか。
大体、その「いつか」っていつなんだという話である。ブラック企業で働く人に「いつか辛く苦しい思いをしただけ、見返りがあるよ」なんて、僕は口が裂けても言えない。
それよりも「そんな環境ではろくな未来がないから、さっさと離職しなさい」と言ってやりたい。日本人の「いつか報われるから、今はこの苦役に耐えよう」という風潮なんて、今この瞬間の幸せを放棄させるための、体のいい方便にしか思えない。たかが生活のためにするだけの労働に、大して崇高な意味なんかない。