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『アウトレイジ 最終章』は、なぜ希望を描いてしまったのか? 日本社会の“現実”との関係性

2017年10月14日 10:03  リアルサウンド

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 「全員悪人」とのキャッチコピーで知られる『アウトレイジ』。権力や金のために次々と殺人や暴力が繰り返される、このバイオレンスにまみれ殺伐としたヤクザ映画は好評を博し、北野武監督本人が演出する唯一のシリーズ作品となった。おそらく作り手自身も、当初は3作続くことになるとは思っていなかったのだろうが、それも本作『アウトレイジ 最終章』で、タイトル通り一応の締めくくりとなる。ここでは、そんな本作の評価や、北野武監督作のなかでの『アウトレイジ』シリーズの位置づけなどを、監督の作風をもとに、できるだけ深く考えていきたい。


参考:『アウトレイジ 最終章』が初登場1位 北野武監督は今や“安定したヒットメイカー”に


■『アウトレイジ』は北野武作品のなかでどんな意味を持つのか


 北野武監督作といえば、行き過ぎた残酷描写だったり、斬新なカット割によるシュールな演出、説明が十分にされない抒情シーンが配されるなど、娯楽表現の基礎から全くはずれた文法で撮られた、とくにヤクザを主人公とした映画のイメージが強い。そのなかで最もその特異性を発揮した代表作と呼べる作品といえば『ソナチネ』であろう。


 作品が発表された90年代には「暴力団対策法」が施行されるなど、社会問題激化を背景に、日本のヤクザ映画は劇場作品においてすでに、アメリカの西部劇がそうであったように「組織や社会のなかで倫理を貫くヒーローを描く」といったような役割をほぼ終えていたといえよう。そのなかで、凶悪な暴力性を前面に押し出し、いままでの善悪の基準から逸脱した、ここでのビートたけし演じる圧倒的な「異物」としてのヤクザ像は、西部劇における、クリント・イーストウッドが演じた幽霊としてのガンマン同様に、ジャンル映画の枠を突き破ってくる力を持っていた。


 奇妙なタイミングで場面が切り替わる編集、直立不動で撃ち合うシュールな銃撃戦、さらにはジャン=リュック・ゴダール監督の『気狂いピエロ』の描写をとり入れるなど、「ヤクザ映画」を、古くさいどころか前衛映画の境地にまで突出させてしまう。この常軌を逸した実験性と違和感によって、逆に従来のリアリティーを超え染み出してくる異様な陶酔感に、常に新しい表現を求めているような世界の映画ファンは熱狂することになる。


 北野武は、なぜこのような作品を撮ることができてしまうのか。その作家性の核となるのは、監督がもともと「芸人」であるという部分に依拠している。監督デビュー作である『その男、凶暴につき』では、古今亭志ん生(五代目)の『黄金餅』という演目がカーステレオから流れるシーンがある。落語といえば、突飛な表現や展開の飛躍など、聴く者の発想や現実感覚を乗り越えていくところに面白さがあるが、表現の足場が漫才師であった北野武もまた、同様にその種の手法や勘というものを持ち合わせているはずである。監督作における、時間の経過をカットするようや突飛な編集や、常識や予想を超えたリアリティーなどからは、そういった感性が垣間見えるのだ。


 お笑い出身の監督と聞くと、「ギャグが満載のお笑い映画が得意なんだろう」と思ってしまいがちだし、実際にそういう映画づくりにとどまってしまう監督も多い。しかしそのような表面的なギャグくらいなら、専門的に撮り慣れている多くの映画監督でも容易にできてしまうはずである。北野武監督はそうではなく、本質的な意味でお笑いのメカニズムを解体し、その構造を利用した映画を作り上げてしまうのだ。圧倒的な個性はそこから生まれてくる。世界に通用する映画監督に「条件」というものが存在するならば、このように映画表現において本質的な考え方ができるということかもしれない。


 その作品の内容が、一般的な観客を遠ざけるようなものであればあるほど、北野武の評価は逆に、カンヌ、ヴェネツィア、ベルリンと、世界三大映画祭で受賞するなど、とくに海外において急激に高まっていった。監督がお笑いタレント「ビートたけし」でもあることから、当初は色眼鏡で見られがちだった日本の観客の間でも、そのような評価の高まりとともに、巨匠・北野武のイメージは浸透していったといえる。


 名声を得た監督・北野武のその後の課題となっていたのが、そのように先鋭化することで置いてきぼりにしていた、大衆的な評価の獲得という部分だったはずだ。北野作品の前衛的な世界と、一般大衆的な娯楽表現がそれぞれに重なった「集合部分」を探っていくという過程で、大衆的感覚に乗せきれなかった『BROTHER』、逆に持ち味が希薄になった『座頭市』など、試行錯誤の果てにたどり着いたのが『アウトレイジ』だった。広く観客の心をつかむような、「バカヤロー、コノヤロー」に代表される、相手を口汚くののしる、俳優の”凄み”の演技。そしてカッターナイフを使った「指詰め」や、ピッチングマシーンや歯科の治療器具を利用した拷問シーンなどの悪趣味な楽しさ。前衛的な美学によって表現されるシュールな死の描写を、一種のコメディーとして意味付けることによって、ついに作品に一定の調和をもたらしたのである。


 そこで重要な役割を果たしたのが、コミカルな表現ということになるだろう。『アウトレイジ』一作目における、あるヤクザの首がすっ飛んでいく描写は、監督に強い影響を与えた、デヴィッド・リンチ監督の『ワイルド・アット・ハート』からの引用であろうが、ここに発揮されているのが、北野監督自身がそこに存在すると述べている「コミック的」感覚である。北野武は、自作にコミック的な表現をとり入れるため、漫画を読んで学習しようとしていた時期があるという。人気のある日本の漫画を周囲の者に買ってこさせることもあったというが、当時「一番売れている」という理由から、『名探偵コナン』を読むことになり、そのときは何の参考にもならなかったという逸話を聞いたことがある。


 このように、『アウトレイジ』における「ヤクザのこわさ」というのは、一般人が恐れる「ヤクザのこわさ」を強調したものである。ヤクザたちは、『ソナチネ』などで描かれた、何を考えているか分からない謎めいた存在ではなく、ここではそれぞれの行動原理がハッキリと分かるように描かれ、セリフのなかでも説明される。それは、楽しみ方がすでに確立されている「安心できる娯楽表現」のなかに、北野武の表現が吸収されるということである。そしてそれはまた『仁義なき戦い』シリーズなど、往年のヤクザ映画などと同じ土俵に、本シリーズも上げられるということでもあるだろう。その環境において、北野武監督はもはや「唯一無二」の存在ではいられない。『アウトレイジ』シリーズは、そこに果敢にも殴り込んでいく作品なのである。


■『アウトレイジ 最終章』は、なぜ希望を描いてしまったのか


 本作『アウトレイジ 最終章』は、済州島の桟橋で太刀魚を釣っているシーンから始まる。『ソナチネ』における石垣島の景色を思わせる天国のような光景だ。そこは、前作で描かれた関東の山王会と関西の花菱会の抗争の果てに「ある人物」を殺害した、ビートたけし演じる主人公「大友」の潜伏先である。大友は、日本と韓国を股に掛けるフィクサー、張(チャン)会長の庇護のもと、済州島の彼の〈シマ〉で働いている。張会長は売春組織を裏で運営しているらしく、大友はそこで起こったトラブルを解決すべく、ピエール瀧が演じる花菱会幹部・花田と対峙する。その争いのなかで張の手下の一人が殺されてしまい、大友は自身の判断で仇を果たすため、再び日本へと乗り込むが、これをきっかけに、花菱会の内紛や山王会の策謀が動き出していく。


 このシナリオが特徴的なのは、少なくとも今回のトラブルでは、張会長は完全にとばっちりを受けたかたちになっているということである。「全員悪人」のなかにおいて、(違法な売春ビジネスを行っているとはいうものの)珍しく理性的な組織というものがクローズアップされているのだ。これは、『仁義なき戦い』以前の任侠映画でよく見られた、良いヤクザ、悪いヤクザという構図の部分的な復活である。大友は、そのように迷惑をかけるヤクザたちに、自分の命を危険にさらしながら鉄槌をくだそうとする。これも任侠路線に先祖返りするような、ファンタジックな筋書きである。


 なぜ『アウトレイジ 最終章』は、このような古めかしいヤクザ映画に回帰していくのか。それは、おそらく日本社会における「現実」というものが、作品のそれを凌駕するくらいに荒唐無稽化していくという流れに対応しているからなのではないだろうか。つまり、現実の方が『アウトレイジ』化してきているのである。


 大杉漣が演じるのは、日本最大組織となった花菱会の会長であるが、逝去した前会長の婿養子だということで会長に就任したため人望はなく、ふた言目には「経済、経済」と強調し、自分の財テク手腕を誇る割には、西田敏行演じる幹部・西野曰く、「穴をあけてばかりいる」らしい。思うとおりに成長できないという焦りから、花菱会が愚かな策によって自滅していくという流れは、多くの観客が、世襲議員が多い国会や、破綻する年金制度、腐敗した官僚機構、醜い政治的駆け引きなどを抱え込んでいる社会の姿を思い浮かべずにはおれないはずである。会長の座を狙う西野もまた、権力欲がその顔からにじみ出ており、やはりふた言目には「銭や銭や」と、もはや体面を繕うことすら忘れているように見える。


 『アウトレイジ』シリーズでは、大臣や警察、他国の大使などとのヤクザのつながりを描き、社会を風刺していたが、ここではもはや日本社会そのものが「全員悪人」の様相を呈しているということを、ヤクザ映画という形式において面白おかしく描いていくしかないのだというように見えてしまう。だから必然的に本作は、コメディーとしての色が最も強くならざるを得ないし、そこで対立するべき「任侠」の理念に回帰していく、真面目で誠実な存在であるところの「大友」が必要になるのである。


 大森南朋演じる市川が、組織からの命令があるわけでなく命を懸けて日本にやって来るというのも、大友のなかに、ある種の希望を見出しているからであろう。本作は、いまの社会に失われてしまった「真面目さ」であり「誠実さ」を取り戻さなくてはならないという、きわめて「凡庸」な結末に行き着いてしまう。そのように、おそらくは作り手自身も“意外に”思えるだろうところに向かわざるを得なかったというところが、本作における本音なのかもしれない。無常感を強調する演出が見られていた前2作のラストシーン。本作はその部分に、ささやかな希望を映し出している。しかし、そんなシーンが挿入されていることで感じるのは、逆に世相が暗くなってきているという不穏な空気の反映である。(小野寺系)