小池百合子・東京都知事が「希望の党」の結成会見で口にし、話題となった「アウフヘーベン」。小池氏は結成会見以前にも、築地市場の移転場所が問題になったときにこの言葉を使っていた。
その数日後には、民進党の前原誠司代表までもが、この言葉を使った。民進党が希望の党に吸収されるのは、解党でも合流でもなく「アウフヘーベン」だというのだ。
こうした哲学用語を政治家が使うことについて「ごまかしている」「イキり大学生みたい」といった批判的な見方もある。しかし誰にだって、答えに窮して専門用語でごまかしたり、何か高尚なことを言っているかのように装いたくなる時はある。
そんな時、「アウフヘーベン」以外にも使える言葉はないのか。そこで今回、「脱構築」や「コペルニクス的転回」といったそれっぽい用語を独断と偏見で厳選した。難解な言葉で場をしのぎつつ、周囲と差を付けたい時にぜひ使ってみてほしい。(文:オリュンポス魔威孤)
現代思想で痛々しく、あるいはニーチェで中二病を振りかざす
脱構築(使いやすさ★★☆、イタさ★★★)
「海外進出の計画は、一度脱構築して練り直すことが必要だと思うんですよね」
私たちは、精神/物質、善/悪、西洋/東洋、男/女といった様々な二項対立に基づいて物事を認識している。しかしこうした二項対立は、前者と後者の序列化や認識の固定化といった弊害を生み出す。フランスの哲学者ジャックデリダは、こうした二項対立を「脱構築」する、簡単に言えば、解体することを目指した。
現代思想の中でも特に人口に膾炙した言葉であり、既存のものを変える、くらいの意味で使っておけばいいだろう。
オリエンタリズム(使いやすさ★★☆、イタさ★☆☆)
「田舎の人が皆、優しいなんていうのは形を変えたオリエンタリズムに過ぎない」
西洋文化において、東洋が紋切り型のイメージで表象されることを「オリエンタリズム」という。パレスチナ系アメリカ人の文学者エドワード・サイードが同名の著作の中で用いた。強者が持つ、現実とは必ずも一致しない弱者への偏見やイメージくらいの意味で使ってもいいだろう。
「奴隷道徳」(使いやすさ★★☆、イタさ★★☆)
「左遷された奴に同情なんてするなよ。そんなのは奴隷道徳だ」
ドイツの哲学者ニーチェは、キリスト教信仰の上に築かれた価値観が崩壊し、世界が無目的で無価値なものであることが明らかになったことを「神は死んだ」と表現した。神の死によって、キリスト教が説く博愛や平和といった道徳は、弱者が自己を正当化するための奴隷道徳であることが暴露されたという。
ベーシックな哲学用語を乱発し、周囲を煙に巻こう!
コペルニクス的転回(使いやすさ:★★★、イタさ★★☆)
「俺には彼女ができないけれど、そのおかげでフラれる心配もないんだという発想のコペルニクス的転回ができた」
ドイツの哲学者イマニュエル・カントは、「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」と主張した。それまでは人間が外部に実在する対象を認識するという理解が普通だったが、この主張によって、対象は主観の認識の枠組みに一致するように構成されるという考え方に変ったと言われる。
「認識が大きく変わった」「それまでの認識が180度変わった」程度の意味で使う人も少なくない。
ア・プリオリ/ア・ポステリオリ(使いやすさ★★★、イタさ★☆☆)
「あずにゃんが俺の嫁だということはア・プリオリな事実だ」
経験に先立つものを「ア・プリオリ」、経験から得られるものを「ア・ポステリオリ」という。前者を先天的、後者を後天的と訳すこともできる。先天的なもの、すなわち揺るがない自明のこと、というくらいの意味でも使える。
エポケー epoke(使いやすさ★★★、イタさ★☆☆)
「俺の営業成績が、部署内で最下位?一度、エポケーが必要だな」
事実についての判断を差し控え、事実をあるがままに受け入れることを指す。事実をあるがままに受け入れる以外になす術がないときも、「エポケー」と言っておけば、なんとなくかっこいい。
アンガージュマン(使いやすさ★★☆、イタさ★★☆)
「俺が優秀なんじゃなくて、お前にアンガージュマンが足りないだけだ」
フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは、個々人が直面する独自の状況を引き受け、さらにその状況を変化させていくことをアンガージュマンと呼んだ。「覚悟が足りない」といった時代遅れの根性論に代わって、「もっと主体性を持って取り組んで」といった精神論を振りかざす時に使えなくはない。
【番外編】筆者が思わず口走った「パフォーマティブ」
「パフォーマティブ」(使いやすさ★★☆、イタさ★★★)
「直接、反論するんじゃなくて、パフォーマティブに反論しているんです」
一般に言葉の機能は、事実や情報を表すことだと考えられているが、約束や命令のように言葉の使用そのものが行為になることがある。イギリスの哲学者J.L.オースティンは、前者を「事実確認的(コンスタティブ)」、後者を「行為遂行的(パフォーマティブ)」と呼んで区別した。
アメリカの哲学者であるジュディス・バトラーは、オースティンの理論を援用し、ジェンダー化された主体は「パフォーマティブ」に構築されると主張した。
筆者は、まさにこの原稿の執筆中に、思わずこの言葉を口走ってしまうことになった。別の企画の趣旨を説明していた時、同僚に「それでは前提が違うので、きちんとした反論になっていない」と問い詰められ、答えに窮して「パフォーマティブに反論している」と回答してしまったのである。
直接、正面切って反論しているわけではないが、その企画そのものがカウンターたりえている、と言えばよかったのだろうか。「パフォーマティブ」くらいの言葉なら普通に使うと思うのだが、それを「難しい言葉で煙に巻いている」と言うなんて、同僚の教養レベルを疑ってしまった。
【参考文献】
尾関周二・後藤道夫ほか編『哲学中辞典』(知泉書館、2016年)
小寺聡編『もういちど読む山川哲学 ことばと用語』(山川出版社、2015年)
スチュアート・シム著、田中裕介・本橋哲也訳『ポストモダンの50人』(青土社、2015年)
野家啓一・門脇俊介編『現代哲学キーワード』(有斐閣、2016年)