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森山直太朗は“捉えどころがない日常”を表現するーー劇場公演『あの城』千秋楽を振り返って

2017年10月11日 16:32  リアルサウンド

リアルサウンド

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 森山直太朗劇場公演『あの城』(下北沢・本多劇場/9月14日~10月1日)が10月1日、千秋楽を迎えた。


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 音楽ライブと演劇を融合させた森山の劇場公演は、2005年の『森の人』、2012年の『とある物語』に続いて、5年ぶり3作目。本作も過去2作と同様、作・演出を森山の楽曲の共同制作者である詩人の御徒町凧が手がけ、劇中で使用される楽曲の詞曲を森山と御徒町が担当した。出演者は森山のほか、皆本麻帆、富岡晃一郎、町田マリー、黒田大輔といった個性的な俳優陣に加え、メジャーデビュー15周年を記念した全国ツアー『絶対、大丈夫』(2017年1月~7月)のバンドメンバーを務めた河野圭(Piano)、西海孝(Guitar)、朝倉真司(Percussion)、須原杏(Violin)、林田順平(Cello)も参加。演劇人と音楽人による有機的なコラボレーションが実現した。


 『あの城』の登場人物は、敵国に侵略されて“あの城”から逃げてきた、幼い王子とその取り巻き。「いつかは城に戻りたい」という思いを抱きながら国境近くの森の奥で野営を続けるのだが、徐々に食料も底をつき、生活を共にする人々の関係にも微妙な変化が生まれる。ナオタリオ(森山)、ミナ(皆本)、ダン(富岡)、カレン(町田)、エトー(黒田)、ニシミ(西海)、ティンジ(朝倉)は、敵国と戦う覚悟を決めて城に戻るべきか、王子を守るために逃亡を続けるべきかと決断を迫られるが、右往左往しているうちに“あの城”が敵国の手によって燃やされてしまう。戻るべき場所を失った彼らは、さらに混迷した状況に直面することになる。


 『あの城』で描かれたのは、ひとつの理想を掲げて逡巡する人々の物語だ。ダイナミックな展開は「いつか戻ろうと思っていた“あの城”が焼け落ち、なくなってしまう」という部分くらいで、あとは淡々とした日常(といっても森の中の野営だが)が続く。そのうちに“あいつ、食べ物を横取りしてないか?”とか“敵国と戦うとか、口だけだろ”とか“あいつとあの子、ヤッちゃったらしいぜ”みたいな些末なことに翻弄され、掲げていたはずの理想はどこかにいってしまう。ストーリーのなかに胸がすくようなカタルシスはないし、伏線が回収される気持ち良さもないのだが、舞台を見ているうちに“これは我々の日常そのものだ”と気付く。そう、本作で描かれる“捉えどころがない日常”こそが御徒町凧と森山直太朗の表現の本質なのだ。


 シンガーソングライターも劇作家も、人生における特別なシーンを描こうとしがちだ。しかし、本物の人生において、そんな瞬間はほぼ訪れない。御徒町と森山はそのことを深く理解しているからこそ、日常の些末な出来事、取るに足らないような物語を丁寧に紡ごうとするのだと思う。


 『あの城』において、彼らの表現のスタンスがもっともわかりやすく表れているのは、森山が演じる“ナオタリオ”だ。王家の血を引くナオタリオは、とにかく決断しない。人々が“城に戻るべきだ”“いや、ここに残るべきだ”“キャラバンとして新しい旅に出るべきだ”と意見を交わし合っても、ナオタリオはどっちつかずの態度を崩さない。それはおそらく、ナオタリオ(=森山直太朗)が“ある事象に対し「これはAである」と回答を与えた瞬間、そこに新しい思考を巡らせる余地はなくなり、未来のビジョンはやせ細っていく”と考えているからではないか。常識や正しさに捉われるのではなく、変化を続ける自分と現実を見続けることこそが大事ーー筆者が本作『あの城』から感じたメッセージは、まさにそのことだった。


 もちろん、森山のパフォーマンスにも強く興味を惹かれた。ストーリーの一部であるナオタリオと、客席に向かってライブを行うモリヤマナオタリオ(本作のなかで森山は「レスター」「生きる(って言い来る)」などの既存曲のほか、新曲「糧」「自分が自分でないみたい」などを歌唱した)の両面があり、どこまでが演技でどこからが素なのかもよくわからない。ここでも彼は“捉えどころのなさ”を体現しているわけだが、明確に理解できないからこそ観客は、森山の立ち居振る舞いに惹きつけられてしまうのだ。今回の公演に関するインタビューを行った際に彼は「音楽ライブはその時期に作った楽曲やアルバムが遠心力になる場合が多いんだけど、劇場公演の場合は自分自身がスッと舞台のうえに乗っかれる感じがあって。その結果、自分でも気づいてなかった濃い部分、内面のドロドロしたところを曝け出されるような気がします」と語っていた。シンガーソングライターとしての活動だけでは収まらない部分が浮き彫りになった『あの城』。この公演のなかで森山は、自らの表現の本質を掴み直したのだと思う。(森朋之)