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映画作家・北野武の集大成ーー『アウトレイジ 最終章』がもたらす贅沢な時間

2017年10月11日 12:03  リアルサウンド

リアルサウンド

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 104分という上映時間が予期させたように、『アウトレイジ 最終章』は簡潔にしてきわめて純度の高い圧倒的な傑作になった。冒頭の晴れた海と白っぽい坂道、質の良い白いシャツにサングラスの監督本人と、釣糸を垂れる洒落たチンピラシャツの大森南朋のいる桟橋のシーンから、艶やかな夜の街に車を走らせるシーンへと変わるオープニングのシークエンスは、それだけで早くもこの映画全体にわたる場面転換のあざやかさと、惜しむことなくふんだんに詰め込まれた映画ならではの魅力を観客にいっきに伝え、期待と喜びで胸を一杯にする。


参考:大森南朋が語る、念願の『アウトレイジ 最終章』出演への思い 「僕にとって本当に宝物」


 『アウトレイジ 最終章』は、シリーズの一本とはいえこれだけでまちがいなく完結した作品だ。人物の背景やそれぞれの関係はここだけで律儀に丁寧にセリフを介して説明されているし、たとえ前二作を見ていなくともまったく問題はない。だが、約30年に及ぶ監督としてのキャリアの中で、18本もの長編を撮ってきた北野武の映画を、この機にデビュー作からすべて──できれば年代順に──見返してみる作業はきっと必要だろう。なぜなら、北野武は、昨年逝去したアッバス・キアロスタミと並んで、私たちにとってもっとも重要な作家だと思われるからだ。


 イランのアッバス・キアロスタミが、『ホームワーク』(1989)や『パンと裏通り』(1970)、『友だちのうちはどこ?』(1987)などで〈子供〉と私たちの世界を切り離しつつ結び、さらに、イランの映画という未知の領域を世界の映画史に豊かに組み込み、私たちの世界を大きく開いてくれたことを忘れることはできない。キアロスタミに似て、北野武はTVやお笑いという異世界から来て、〈ヤクザ〉を任侠映画から切り離しギャング映画として世界に結び付けながら、さまざまなやり方で楽しませてくれた。二人は狭くなりがちな映画の世界を、強力な仕方で開放してくれた〈大物〉のような存在なのだ。


 世紀転換期の混乱のさなかで、チンピラヤクザのような政治家たちが大手を振って歩く現在、すぐれたフィクションは現実の先をいかねばならないから、『アウトレイジ 最終章』も、しめやかに自身の後片づけに着手していくようだ。淡々と義理を果たしていく主人公の大友(ビートたけし)に、先を予測させない突飛な行為はないといってよく、クライマックスの銃撃も彼の最期も、あえて既視感をおぼえさせる「穏やか」とすらいえるものだろう。ここには『ソナチネ』(1993)や『BROTHER』(2001)でみた自己劇化もないし、『HANA-BI』(1997)でみたメロドラマ的孤独も哀愁もない。


 主演俳優としてのたけしが、無駄を削ぎ落としたシンプルネスを達成したのは監督デビュー作の『その男、凶暴につき』(1989)と『アキレスと亀』(2008)、それに今作『アウトレイジ 最終章』ではないだろうか。本シリーズと近い関係にみえる四作目の『ソナチネ』は、今見ると編集があまりに間延びしており演技も演出も弛緩しているようにみえる。本作は編集のリズムからシーン転換の強度、主人公とそれを取り巻く人物たちすべての演技と演出がこのうえなく充実した画面となって全編を満たし、陶然とスクリーンに見入るほかない濃密な時間を与えてくれる。


 シリーズ前作の『アウトレイジ ビヨンド』(2012)では、まだ「俺が主人公だよ」というある意味当然の見せ場が最後に持ってこられていた。本来なら主人公になるはずもない小賢しいチンピラ刑事(小日向文世)が、貧乏くさい画面内存在からみるみるうちに驚くべき存在感を獲得していき、堂々たるアップの連鎖に耐える「顔」のひとつに成り上がっていくさまには呆気にとられたものだ。その後ろに終始控えるかにみえたたけし演じる大友が、ラストの一瞬で主人公の立場を奪還するドラマでもあって、「かっこいいのは俺(に決まってる)でしょ」と(小日向ともども)騙されたような気分になる映画でもあった。


 今作では、メインの人物たちの誰が主役といってもいいほど各々が完璧に所を得ていて、かわりに警察はすっかり後景に退き生彩を欠く。たった二人の刑事はほとんどいなくていいほどだし、同様に女も脇役にすらいない。ここにいるのは、革張りのソファにどっしりと身を沈め、さらに、まるでめり込んだように肩に首を沈めてじっと動かない初老の男たちだ。例外的に若いピエール瀧演じる花田でさえ、登場シーンから大きな顔を胴体に埋めて、奇妙にいびつなバランスで画面に現れる。


 前作では、中年から初老に差し掛かった男たちにはまだ十分に瞬発力がみなぎり、いつでもソファから身を起こして拳銃を抜くことができそうだった。今作では、西田敏行演じる花菱会の若頭西野は、もっとも重たくソファにめり込んでおり、ゆっくりと身をよじって彼が怒声を振りしぼるとき(「声が大きい」とたしなめられるのだが)、革張りのソファはブリブリとそのつど面白い音を立てる。塩見三省演じる若頭補佐の中田も、おしりがソファに張り付いたように硬直したまま上体だけで高度にユーモア溢れる演技をする。二人の脇に控えて同じくソファに沈んだ無言の男たちは、話を聞いているというより数日前の自分の健康診断の結果を気にしているようにみえる。


 『アウトレイジ 最終章』の人物たちは、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』の最終篇「見出された時」の最終部、ゲルマント大公夫人邸の午後のパーティの出席者たちのようだ。過ぎ去っていく時の中で変わっていく顔面、白いひげをつけて小刻みにふるえる人形のように老いた相貌、時には老齢でかえって美しくなる「昆虫の変態にも似た変身」、〈時〉が顔面にかぶせた仮面と「再生の力」……「歳月の光学的展望と呼ぶべき」午後のパーティは、「過去に継起したすべての映像」を差しだし、作家は〈時〉についての高名な作品を書いた。


 北野武の最新作は、穏やかな陽光をあびた海辺の桟橋で始まり、同じのどかな桟橋で終わる午後のパーティだ。みじめな人間の営み、老いや死という悲しみもあるが、深い呼吸をさそう気持ちのよい夜の雨や、身を沈めたら立ち上がれなくなる上質な革のソファと心地よい室内の照明、美しくも醜くもなくただ興味深い俳優たちの顔と趣き深い声、すべてをゆっくりと──登場人物たちのペースに合わせて──楽しむことができる。それは贅沢な〈時〉の経験であり、映画という光学装置にのみ与えられうる〈芸術〉の体験である。(田村千穂)