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荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第7回:M・マクラーレンを魅了した、“スペクタクル社会”という概念

2017年10月09日 17:32  リアルサウンド

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 ブロック・パーティやクラブで生まれ発達したヒップホップ/ラップの重要な要素として、ダンスとスタイル(ファッション)が、1980年代始めのニューヨーク・ダウンタウンのアップタウンにそれぞれいたパンクとヒップホップというふたつの異なったグループを近づけた。しかし、そこに何が起こったかをもう少し近くから見ると、実はその10年前の1960年代の終わりに何が起こっていたのかを振り返る必要がある。この連載で取り上げている東京、ニューヨーク、に加えて、ここではロンドン、それにパリにも関連してくる。


(関連:荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第3回:YMOとアフリカ・バンバータの共振


 1968年、つまり、ロンドンはキングス・ロードのショップ 、パラダイス・ガレージ の一部を借りて、古着やロックンロールのメモラビリアを売り始める3年前、もしくは名高いSex Pistolsのマネージメントを手がける7年ほど前、クロイドン美術学校の学生だったマルコム・マクラーレンは親友のジェイミー・リード、そしてロビン・スコット(のちに「Pop Muzik」を大ヒットさせるM)と共に、別館での座り込み抗議を計画組織し実行に移した。マニフェストが撒かれ、部屋はロックアウトされた。しかし、教師に対しての些事でしかない文句以外に、マクラーレンもリードも言うことはなかったとされ、運動はしりつぼみになって幕を閉じた。


 6月にマクラーレンとリードはパリを訪れた。かの“五月革命”は終わっていたが、歴史的な激動の余熱はパリの街並に残っていた。マクラーレンはパリという街に強く惹かれたが、ロンドンに戻り、クロイドン美術大学を辞めて、ロンドン藝術大学ゴールドスミス・カレッジに移った。


 第二次世界大戦後のパリで、ギー・ドゥボールがイジドール・イズーやモーリス・ルメートルと共に身を投じた前衛芸術運動レトリズムが、それでも芸術の範疇にあったのに比べ、ドゥボール、ミッシェル・バーンスタイン、アスゲ・ジョーンらによって1957年に結成されたシチュアシオニスト・インターナショナル(SI)は社会での実践を特徴とし、実際に“五月革命”の動き、特にその初期のソルボンヌ大学紛争に参加もし、またドゥボールの“スペクタクル社会”という概念は運動に大きな影響を与えた。


 レトリスム同様にダダや超現実主義の影響を受けながら、彼らは“現在、世界の発展のなかで、表現のすべての形式は現実に人を引き付けるすべての力を失っており、自己パロディー化している”(※註1)との認識を持っていた。マルクス主義からの物象化、物神崇拝の究極のありかたとしての“スペクタクル社会”という概念を片手に、彼らは芸術の最前衛に立とうとした。その理由は、もう片手に忘れずにあった、自分たちの芸術を社会に直接結びつけたいという古典的な情熱だった。


 “スペクタクル社会”は、“劇場型社会”や“メディア社会”といったものではない。ドゥボールがヘーゲルの“疎外”から発展させた、資本主義が人々のコミュニケーションまでも商品に仕立ててしまう社会についての概念である。しかし、SIが国際的な影響力を得たのは、当時最新の話題であった社会におけるテレビやラジオといったマスコミニュケーションのありかたともちろん関係があった。


 マクラレーンとリードも例外ではなかった。彼らはドゥボールに心酔し、マクラーレンはドボゥールの書籍『スペクタクルの社会』も片時も離さず持ち歩き、本人に会いにさえ行った(会えなかった)。


 フランスとイギリスのSIが発行していた理論や、コラージュを掲載していたパンフレットの美学は、のちにマクラレーンがマネージメントし、リードがグラフィック・デザインを担当するSex Pistolsのサウンドとビジョン、それにマクラーレンがパートナーのヴィヴィアン・ウエストウッドと売っていた服に受け継がれた。広告、マンガ、それにセレブリティのイメージを嘲笑するようなワイセツなコラージュ。紫色に輝くアルミニウムや紙ヤスリを唐突に表紙にすること。一般に想像される政治的パンフレットの実用性から遠くかけ離れ、SIの地下出版物は手にとるオブジェとして強い引力を持つ。フェティシズムを刺激するような戦略的デザインなのだ。


 Sex Pistolsも個性を武器に権力に反対していたバンドではさらさらなく、“スペクタクル社会”が実現してしまった当時のイギリスという社会空間において、ロックンロールがどうあるべきかの顕現である。


 マクラーレンとリードを魅了したとされる、SIとドゥボールの幾つものアイデアのなかでも重要なのは、“著作権フリー”だ。


 “著作権フリー”はシチュアシオニスト用語での“転用”という戦術で、資本主義の作り出した物象化や物神崇拝を撹乱するために、著作権を無視する。それはマクラーレンがSex Pistolsのあとにマネージメントをしていたグループ、Bow Wow Wowのニューヨーク公演の前座を探す過程に出くわしたヒップホップを理論的側面から正当化した。彼はAfrika BambaataaやJazzy Jayのプレイ、またはFunky 4+1のラップから聞こえてくることを、音楽の引用や編集という形容ではつきない(もしそうなら、ポップ音楽の持つ再帰性で話は事足りる)、遥かに超えて魅力的な政治的概念/行為として受けとめた。


 それがその最初期においてサウス・ブロンクス以外からのヒップホップ・レコードとして最も重要な、1982年のMalcolm McLaren and the World Famous Supreme Team名義の、世界を変えた「Buffalo Gals」というシングルと、翌年のアルバム『Duck Rock』が生まれた大きな理由だと考えられる。


 「Buffalo Gals」のマクラーレンのリリックは、世界中の民謡や子どもの歌を音のドキュメンテーションとしてリリースしていた、ニューヨークは<フォークウェイズ・レーベル>のレコードから採られた。そのテネシーのダンス音楽のための言葉は、スクラッチによって反復され断片化される。実際のプロデュースはThe Bugglesとしても活動していたトレヴァー・ホーンだ。マクラーレンを通してヒップホップを知ったホーンは、翌年のYesの『Owner Of A Lonely Heart』のプロダクションでも、後戻りのない影響をポップ音楽の美学と考え方に与えるが、そのことは後に記す。


 「Buffalo Gals」のミュージックビデオには、ブレイクダンサーのRock Steady Crewが起用され(同じ年、実は中西俊夫も自身のプロジェクト”Melon”に彼らを出演させたことは以前書いた)、コンテンポラリーアーティスト、ジェニー・ホルツァーの有名な作品のように「ALL THAT SCRATCHIN’ IS MAKIN’ ME ITCH」といったテキストが電光掲示板からマンハッタンの都市空間へと流されていく様子が映される。


 1970年代の半ばに人知れずサウス・ブロンクスで生まれたヒップホップを、こうしてマルコム・マクラーレンは残りの全世界へと紹介した。


 SIの影響はこの後も彼につきまとったので、アルバム『Fans』(1984年)や『Paris』(1994年)も、彼にとって憧れの神聖なパリという街やヨーロッパのカルチャーをスペクタクル化しようとし、失敗した作品としても捉えられる。


 さて、1979年にニューヨークのインディ・レーベルからリリースされたSugarhill Gangの「Rapper’s Delight」は、最初期のラップレコードとしてはとても息の長いヒットになり、その後数年かけてグローバルなヒットになって様々な都市に“ラップ”を伝えていった。


 1980年4月、日本のラジオ番組でこの「Rapper’s Delight」に乗せてエスカレートしていく2人の男のリズミカルで奇妙なやりとりが放送された。曲名はまだなかったが、これはのちに「ごきげんいかが1・2・3」として知られていった。ラジオ番組の名前は『それゆけスネークマン』ーー桑原茂一、小林克也、伊武雅刀による、カウンターカルチャーに影響を受けた笑いを得意としていた“スネークマンショー”だ。(荏開津広)


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※註1:『否定としての転用と序曲』ギイ・ドゥボール、p.10、『ポスト・ポップ・アート』ポール・テイラー編、スカイドア、1994年。