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『レゴ ニンジャゴー ザ・ムービー』が描き出す、アメリカ社会の親子問題

2017年10月09日 12:03  リアルサウンド

リアルサウンド

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 『LEGO(R)ムービー』、『レゴバットマン ザ・ムービー』と続いて、はやくもレゴ映画第3弾、『レゴ ニンジャゴー ザ・ムービー』の登場である。3番目のレゴ映画とはいえ、この作品の基となったTVシリーズは、2011年からシーズン7まで続いている人気アニメで、日本でも一部のチャンネルで放送されている。今回は、その映画版である本作『レゴ ニンジャゴー ザ・ムービー』の特異な世界観と、描かれた親子のテーマについて、できるだけ深く考えていきたい。


参考:『レゴバットマン ザ・ムービー』は驚きの映画だ! 批評的視点を獲得した、レゴ映画のカオス


 東洋の文化が根付く明るい街、ニンジャゴー・シティ。その平和を守るのはティーネイジャーのニンジャたちだ。燃える“炎系”ニンジャ「カイ」、俊敏な“イナズマ系”ニンジャ「ジェイ」、音楽好きな“大地系”ニンジャ「コール」、くノ一(くのいち)の“ウォーター系”ニンジャ「ニャー」、ニンドロイド(ニンジャのアンドロイド)の“アイス系”ニンジャ「ゼン」、そして、とくに“何系でもない”伝説のグリーン・ニンジャ「ロイド」。6人の正義のニンジャたちはそれぞれの属性を活かし、ニンジャの師匠・ウー先生の指導の下、街に迫りくる悪の武将・ブラックガーマドンを迎え撃つ。この映画版の設定や物語の展開は、TVシリーズのシーズン1、シーズン2の内容をベースに、新たに脚色し直したものだ。


 本作を日本人という立場で見ると、まず頭に浮かぶのは「忍者って、こういうものだったっけ?」という疑問である。本来、忍者というのは隠密行動によって、暗殺や諜報活動、破壊工作などをする存在だったはずだ。だがここでは街の防衛のために、秘密基地から発進した巨大ロボットに乗って、近代兵器を駆使しながら敵と派手な戦闘を繰り広げている。さらに彼らを指導するウー先生は、名前もそうだが風貌も格闘技も、どちらかというと中国のカンフーマスターとして描かれているように見える。この東洋の文化を折衷し、キッズの好きなメカやドラゴンのような“かっこいいイメージ”を全部くっつけた「東洋的ファンタジー」が、カタカナで書く「ニンジャ」という総体にまとめられているということだろう。


 この雰囲気によく似ているのは、例えばチャイナタウン、リトル・トーキョー、コリアンタウンなどが存在するロサンゼルスの街の一部を総合したイメージである。アジア系でない一般的なアメリカ人にしてみると、これら東アジアの国々の文化というのは似たようなものに感じられるはずだ。しかし、この合体されたイメージというのは、日本を含めた東アジアの人々には逆にできない発想であるともいえる。期せずして、ここではそれらが“仲良く”融合したユートピアが実現しているのだ。本作の舞台ともなるニンジャゴー・シティ、そしてそこに存在する文化は、アメリカが眺めたポジティブな東洋なのである。


 本作で活躍するニンジャのうち、主人公となるのがグリーン・ニンジャ「ロイド」だ。じつは彼は、街をおびやかすブラックガーマドンの息子でもあった。彼は街を救うため父親と敵対しているが、グリーン・ニンジャであることはウー先生や仲間にしか明かしていない。にも関わらず、ガーマドンの息子であることだけは街に知れ渡っており、学校では蛇蝎のように嫌われる暗い生活を送っていたのだ。ロイドの親権は母親ミサコにあり、ロイドがニンジャであることを知らない父親ガーマドンは、街の征服計画に夢中で息子には全く興味を持っていない。


 『スター・ウォーズ』も想起させられる、本作のグリーン・ニンジャとガーマドンの敵対関係というのは、レゴ映画としては心配になるほど険悪に描かれる。ロイドは親子関係に終止符を打つべく、使用を禁じられている「最終兵器」を持ち出してしまう。ここから作品世界すら揺るがしかねない大変な事態になってしまうのだが、真に見るべきは、この親子関係における「最終兵器」という言葉の意味であろう。親子の対立のなかでロイドはついに、「あんたの子どもなんかに生まれてきたくなかった」という言葉をガーマドンにぶつけてしまう。関係に大きな亀裂を与えかねないこのショッキングな言葉こそ、子どもにとっての「最終兵器」と呼べるものである。もちろん、ここまで言わせてしまうまで、子育てに関わらずロイドに対して酷薄な対応を繰り返してきたガーマドンの罪はより重いのは確かだ。


 このような崩壊した家庭の姿が描かれるというのは、ざっくりとした調査で“夫婦2組のうち1組以上が離婚している”という、アメリカ社会の現状が背景にあるだろう。また、精神的に幼い親によって、子どもが受けられるべきケアが与えられなかったり、雇用状況の悪化などから、理想的な大人の姿を子どもに見せてやれないケースも、現実的には珍しくないはずだ。アメリカのラジオやTVドラマ『パパは何でも知っている』(1949~)が象徴していたようなアメリカの明るい家庭像、理想の父親像など、もはやギャグとしか理解されないような状況である。


 社会のそういった現実は現実として受け止めた上で、子どもはそういう環境でどのように生きるべきなのだろうか。本作ではロイドとガーマドンはお互いに歩み寄っていくが、とりわけ注目するべきは、子どもの側が親を許していくという姿である。ロイドは父親に対する幻滅から憎しみを強めていくが、幻滅は期待の表れでもある。精神的な依存の関係から抜け出し、親を自分と同じステージに立った一個人なのだと理解するプロセスを経ることで、はじめて子どもは親という存在から精神的に脱却して、真に自立出来るのではないだろうか。本作の彼らの「和解」は、その先にあるのである。レゴ映画のシリーズは、その愛らしい見た目とは裏腹に、ここまで描いてくれるというのが頼もしい。


 さて、劇場版でウー先生の声を演じ、冒頭の実写パートにも出演しているのが、ジャッキー・チェンである。レゴ映画は、大人も楽しめるようなギャグが散りばめられているが、ジャッキー映画を見ていた世代にはたまらないシーンも用意されている。「ジャッキーはお父さんのヒーローだったんだよ」みたいに、一緒に映画を見に来た親は、一つの映画について子どもとゆっくり語り合い、交流を深める良い機会になるかもしれない。子どもの側も、ニンジャゴーのレゴを親に買わせる良いチャンスである。(小野寺系)