日本に次いでアジア地域で2番目のF1として、1999年に始まったマレーシアGP。2018年まで開催契約があったが、マレーシア政府と主催者はF1との契約を1年早めて終了。今年のレースをもって、19年間の歴史に幕を下ろした。
この最後のマレーシアGPを、特別な思いで見つめていたF1関係者がいる。ひとりはジョニー・ハーバートだ。
現在、スカイ・スポーツのコメンテーターとして人気のハーバートは、F1ドライバーとしての現役生活を終えたのが2000年。当時のF1はマレーシアGPが最終戦として組まれていた。そう、ハーバートにとってマレーシアGPは、最後のF1レースとなった場所だった。
週末にはハーバートが所属するジャガーが盛大なお別れパーティが催し、多くのドライバーたちが参加した。いかにハーバートがF1界から愛されていたかがわかる思い出深いセレモニーだった。
しかし、引退レースは、マシントラブルでリタイア。しかも、激しいクラッシュに見舞われたハーバートは、メディカルセンターから病院へ直行したため、レース後のコメントがないという不完全燃焼の引退レースとなった。
「いまだから言うけど、あの事故は半分人災だった。リタイア理由はフロントサスペンションが折れたからなんだけど、じつはあの年のシーズン半ばにシルバーストンでブルティがテストしていたときに、すでに同じ問題が起きていたんだ。それをチームは見過ごし、対策を怠っていた。ゲイリー(・アンダーソン/当時ジャガーのテクニカルディレクター)の責任は重い」
ハーバートいえば、国際F3000での大事故によって、右足の足首が不自由になり、その後のドライバー人生を大きく変えたことは有名な話である。引退レースでの事故でハーバートは膝を強打しただけで、大事には至らなかったのは、不幸中の幸いだった。
「私はまだ足首が完治していないまF1にデビューしたとき、メカニックに抱きかかえられてコクピットに乗ったけど、まさか最後のレースで降りるときもマーシャルに抱きかかえられるとは思ってもみなかったよ!!」とハーバートは語る。
マレーシアGPに特別な思い出があるもうひとりの人物は、ルカ・バルディセッリだ。現在、ストロールの個人コーチを担当しているバルディセッリは、2015年までフェラーリに所属していた。そのバルディセッリにとって、マレーシアGPはレースチームのスタッフとして最後に戦った事実上の現場引退レースだった。
「当時、私はヘッド・オブ・レースエンジニアリングとして現場責任者として、エンジニアやメカニックたちを指揮していた」
しかし、この年のフェラーリはテストから不調で、マレーシアGPの予選でフェリペ・マッサがまさかのQ1落ちを喫する。しかも、このQ1落ちはチームの作戦ミスで、前年まで簡単にQ1通過していたため、Q1突破ラインを見誤ったためだった。この直後にフェラーリはヘッド・オブ・レースエンジニアリングを交代させ、バルディセッリはファクトリー勤務となった。
「このとき、みんなは私が更迭されたと思っただろうが、じつは私から申し出たんだ。前年の末に妻と別れたこともあって、家族との時間を見つめ直すためにね」
その後、バルディセッリはフェラーリ・ドライバー・アカデミーを設立。ジュール・ビアンキら優秀な若手をレースへ送り込んだ。
今年のマレーシアGPはバルディセッリにとって2009年以来、8年ぶりのグランプリだった。日曜日のセパン・インターナショナル・サーキットは、レース開始4時間前にスコールに見舞われた。その雨を見ながら、バルディセッリは「あのときと同じだ」と懐かしそうに、そして寂しく語って、ガレージへ消えて行った。