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人は狂わされながら生きていくしかないーー『民生ボーイと狂わせガール』が観客に問いかけるもの

2017年09月25日 12:52  リアルサウンド

リアルサウンド

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 雨降りでも遅れてても「気にしない」と歌うミュージシャン、奥田民生。そんな、自然体で芯のある男になりたいと憧れる「奥田民生になりたいボーイ」が、「出会う男すべて狂わせるガール」に出会うことで、理想とは真逆に翻弄され、醜態をさらしまくる青春映画が、本作『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』である。


参考:黒沢清監督はなぜパロディーを多用するのか? 『散歩する侵略者』に見る、主従関係からの解放


 私もライブで何度か奥田民生のパフォーマンスを見ているが、舞台上でときおりウィスキーをあおって歌うなど、無造作で自由に見える態度に憧れるというのはよく理解できるところだ。ただライブ会場では観客の年齢が年々上がってきているように、奥田民生をロールモデルとして生きる主人公の物語というのは、いまの若い世代には響きにくいかもしれない。週刊誌『SPA!』に連載されていた原作漫画を描いた渋谷直角が、奥田民生のちょうど10歳下の1975年生まれなので、そのあたりの世代の感覚だと考えれば違和感はないだろう。


 この原作漫画や、それ以前に同じ作者によって描かれた『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』は、そのタイトルからも想像できる通り、ポップカルチャーやサブカルチャーに傾倒する若者たちの人生や人格を「イタい」ものとして辛辣に描く場面が多く、読者を選ぶ作品だったように感じられる。映画版では、その点がマイルドに表現されているため、一般の観客が受け入れやすいものになっていた。


 監督の大根仁は、『モテキ』や『バクマン。』など、やはりサブカルチャーや出版業界を舞台とした漫画原作の青春・恋愛ものを手がけている映像作家であり、それらの要素がつまっている本作を手がけるというのは必然的であろう。『モテキ』は、カラオケ映像のパロディー演出や、後ろ向きな心情の吐露の描写、映画版ではスパイク・ジョーンズ監督によるビョークのミュージック・ビデオの手法を再現しているなど、「自分を特別だと思っているオタク青年」のイタい自意識を、ときに客観的に突き放して、ときに主観的に寄り添いながら、ポップな映像、編集で表現していたのが画期的だった。


 30代の雑誌編集者である「民生ボーイ」”コーロキ”に妻夫木聡、彼が仕事で知り合う、ファッションブランドのプレス(広報)をやっている「狂わせガール」”あかり”に水原希子と、本作はキャスティングによって原作のイメージが一新されている。『ノルウェイの森』でも奔放な役を演じていた水原希子は、本作でもその軽やかな雰囲気を活かし、ほぼ「概念」のような存在になっているように見える。彼女が映画の被写体として面白いのは、第一に顔の形状である。カメラの角度を少し変えると、キュートにもワイルドにも、天使のようにも悪魔のようにも、大きく印象が変化する。この多重的なイメージが、コロコロと態度が変わり、腹の底では何を考えているか分からないミステリアスな今回の役柄にフィットしているといえるだろう。


 対して妻夫木聡は、気のせいかもしれないが、なんとなく口元を終始「への字」にしているように見え、微妙に奥田民生の顔真似をしているように見えなくもない。付き合い始めた当初はアツアツの状態だった二人だが、次第に立場の差が明確になっていき、あかりを絶対に失いたくないコーロキは、彼女の一挙手一投足におそれ、あわてふためき、所かまわず悶絶する。彼女からの連絡が一日途絶えると不安にかられ、ついつい連続でメッセージを送ったり、職場に電話したり、待ち伏せするなど、ストーカーまがいの行為をしてしまう。その姿に、もはや「奥田民生」の面影はない。恋愛に狂って理性を失っていくイメージは、ある場面ではビル群を望む港湾で必死に泳ぐというシーンで、文字通り「都会の荒波にもまれている男」として象徴的に表現されている。これは内田裕也主演『コミック雑誌なんかいらない!』のビジュアルのパロディーになっており、また違ったタイプのミュージシャンの印象が重ねられているのが面白い。


 本作では、コーロキ以外にも、「イタい」人間が続々登場する。強烈なのは、やはりリリー・フランキーが演じたサブカルライターのキャラクターであろう。「村上春樹や又吉直樹などの”著名”な人物に原稿を書いてもらいたい」という、あかりの要望を叶えようとするコーロキだったが、このライターが強引に、勝手に頼んでもいない原稿を書いて押し付けようとしてくる。この原稿の内容というのが、ここでとくに必要とされていない「渋谷系の終焉」のようなテーマを「ユーモア」を交えつつ内省的に表現したもので、当然コーロキに掲載を断られると、腹いせとしてSNSであることないこと、雑誌の悪口を書きまくり、炎上を引き起こそうとするなど、時代に対応できずに精神状態が破綻した人物である。


 また、安藤サクラが演じるライターは、現実の至るところに「ボーイズ・ラブ」の関係を目ざとく見いだす妄想をしており、打ち合わせ中に突然奇声を発する奇人として描かれる。大幅に原稿を遅らせ、編集者が深夜まで会社で待機しているにも関わらず、ツイッターでつぶやいている。


 彼らフリーライターのキャラクターは、ものすごく嫌なリアリティを持っている。これはライターである原作者の体験が活かされているのだろう。個人的にも、描かれたほとんどが身につまされるものだったので、職業映画として妥当なものになっているように思われる。


 本作で「民生ボーイ」と「狂わせガール」が表現しようとしたものとは、何だったのだろうか。オシャレなライフスタイル誌という、流行に左右されるきらびやかな世界のなかで、編集部の面々やライターたちの狂気に四苦八苦しながら、精一杯に奮闘するコーロキにとって重要だったのは、「自分を見失わない」という信念だったはずだ。その象徴となるものが「奥田民生」である。


 しかし現実では、コーロキ自身の内面やセンスだけで価値を生み出せるほど、業界は甘いものではなかったようだ。他人の言葉に引っ張られたり、自分自身が良いと思えないようなブームに乗っかり、実体のつかめない読者の要望通りに妥協しながら仕事をこなすことで生き残ったということが分かる、別人のようになった終盤のコーロキの涙が印象的だ。コーロキが狂い、男たちが常軌を逸して「狂わせガール」に群がる姿というのは、恋愛描写を超えた、流行の熱に浮かされる業界や社会の構造の写し絵であったように思える。


 しかしこの映画を観ていると、同時に「自分自身」というような確固たるものは、果たして存在しているのだろうかという気もしてくる。「なりたいボーイ」にとっての「奥田民生」が、実像ではない理想のイメージでしかないように、何者にも侵されない存在というのはあり得ないはずだ。人間は周囲の環境とのつながりによって「自分」を確立する。この社会に生きる人は多かれ少なかれ、他者と関わり、流行と関わり、狂わされながら生きていくしかないのだ。そして、狂うことが生きる力にもなるのである。「民生」と「狂わせガール」の間でもがく主人公の姿は、観客一人ひとりの姿でもある。(小野寺系)