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小野寺系の『エイリアン:コヴェナント』評:R・スコットの熱意が生んだ、スリリングな前日譚

2017年09月24日 11:42  リアルサウンド

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 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』、『猿の惑星:創世記』、『オズ はじまりの戦い』など、伝説となった大ヒット映画の本編以前のストーリーを描く「前日譚(プリクエル)」映画が作られるようになったというのは、作品の知名度を活かし、その「知られざる物語」を描くことで注目を集めることができると見られたからだろう。それだけに、元の作品は長く観客に愛されている名作であることが望まれる。その意味で、SFとホラー、スリラーを組み合わせ、圧倒的なセンスで多くの観客を熱狂させ、いまでも定番作品としてよく観られている『エイリアン』は、その資格が十分以上にあるはずだ。


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 2012年に公開された『プロメテウス』、そして本作『エイリアン:コヴェナント』は、その『エイリアン』第一作のプリクエルとして作られたシリーズだ。これが並大抵のプリクエル映画と異なるのは、『スター・ウォーズ』新三部作(エピソード1~3)をジョージ・ルーカス監督が自ら撮ったように、オリジナルの監督であるリドリー・スコット本人が監督を務めているという点である。これは、監督自身も作品に強い思い入れがあり、続編ならともかくオリジナルに関係してくる作品を他人には勝手にいじられたくないという意思があることを意味しているように思える。ここでは、そんな『エイリアン:コヴェナント』の描いた内容に迫りながら、本作が「プリクエル」として、どのような機能を果たしたかについて考えていきたい。


 『エイリアン』第一作といえば、リドリー・スコット監督が最高に尖っていた時期の作品でもある。当時の劇場版予告編を確認してもカリスマ的な雰囲気が漂っていたように、本編にも張りつめた緊張感と、特殊な美学がみなぎっている。その挑戦的姿勢を最も表しているのが、画家H・R・ギーガーによる、「男根」を思わせるエイリアンのデザインや、グロテスクな世界観を採用したことであろう。いまでこそ、エイリアンという存在はポップアイコンとして愛されるまでになっているが、製作当初は、ヒットをねらう一般的な映画に、ギーガーの作風を利用するというのは大きな冒険だったはずである。それだけに、『エイリアン』は圧倒的な新しさを持ち得たのだ。


 とはいえ、プリクエル一作目の『プロメテウス』の時点では、タイトルからも分かるとおり、これが『エイリアン』シリーズであることは、当時の宣伝では極力隠蔽され、少なくともそれを大々的に掲げるようなことはされていなかった。せっかくのブランドを自ら隠すようなことを何故するのかと思ってしまうが、その理由の一つは、おそらく観客にサプライズを体験してほしいというねらいがあったのではと考えられる。


 私は公開当時、『エイリアン』の世界観を基にした映画だということを認識してはいたものの、哲学的で謎めいた前半部とは打って変わり、どんどん往年の『エイリアン』の内容に回帰し始める後半に、まんまと驚かされてしまった。その驚きというのは、すっかりお馴染みの大御所となったベテランのミュージシャンが、若いときの手法に回帰したような曲をいきなりリリースしたような、少し戸惑いつつも嬉しさもあるという、複雑な感情を含んだものだった。


 本作『エイリアン:コヴェナント』は、『プロメテウス』続編ということもあり、エイリアンシリーズであることを遠慮なく標榜する作品となっている。その内容は、『エイリアン』第一作に接続するにはまだ謎が多く残っていた『プロメテウス』とは異なり、そのまま第一作に直結できるものになっていた。第一作と同型のエイリアン(ゼノモーフ)が宇宙船に潜伏し、乗組員を次々に殺しまくるという、『エイリアン』の原点といえる様式美へと立ち戻っていくのだ。そして、ついにあのエイリアン(ゼノモーフ)種族の誕生という大イベントを描いてしまう。その瞬間は、ジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』のように、まがまがしい姿に後光が射す、まるで祝福するような演出によって表現される。この祝福は、しかし同時に人類の終焉を暗示するものだ。


 本作はそれだけでなく、おそらくは旧約聖書『創世記』、ワーグナーの歌劇『ニーベルングの指環』と北欧神話、古代エジプト文明とシェリーの詩や『魔笛』などが融合したと思われる、いかがわしいまでに無節操な壮大さを持つキメラ的な神話が背景に置かれている。これが表すのは、人類が神の恩寵を失ったこと(創世記の「楽園追放」)であり、また終末の日(北欧神話における「神々の黄昏」)の暗示であるだろう。


 『プロメテウス』から引き続き登場する、マイケル・ファスベンダー演じるアンドロイド、“デヴィッド”もまた、象徴的な存在として、ミケランジェロ作のダビデ像と重ねられるシーンがある。デヴィッドの語源とも言われる”ダビデ”は、巨人を殺して新たなイスラエルの王になった人物であるように、本作のデヴィッドもまた絶対的な存在になるべく、タブーを破りながら主従の立場を超越していく。デヴィッドが一人きりで住む宮殿は、北欧神話における、戦死者の魂が集まるという「ヴァルハラ城」が意識されているように見え、またその一角にある細い木に囲まれたテラスは、ギーガーも影響を受けた、19世紀の画家アルノルト・ベックリンの「死者の島」を想起させる。それが示すのは、そこに住む者が永遠の命を持つ新たな神として、死の研究を続ける隠者であるということだろう。


 このプリクエル・シリーズでは、巨人、人間、アンドロイド、エイリアン(ゼノモーフ)という四つの種族が入り混じり殺し合うが、本作が面白いのは、一体どれが生き残るべき特権的な存在なのか分からないということだ。ここにおいて、神を殺してはならないという契約は既に解かれており、その優位性は、その中でも創造主に対しては敬虔な態度をとるエイリアンを除いて、ほぼ無効化されているように見える。つまり、本作の中で描かれる船内のサバイバルというのは、数々の宗教的モチーフによって強調されるとおり、彼らだけの命運を飛び越えた、神々が死んだ終末世界において、どの種が生き残り神に成り代わるのかを決める、壮大な規模のデスマッチであったのだ。


 これは、エイリアンを宇宙の凶悪なモンスターとして、純粋に恐怖の対象として描かれていた、『エイリアン』第一作のシンプルなイメージをすら複雑化させる効果を持っている。狭い船内での局地的な戦いでしかなかった『エイリアン』のエピソードは、本作の存在によって神話のひとつとして位置付けられたのである。


 しかし、いったん作られ評価が定まっている名作に、後から意味付けをしてさらに重厚感を加えるという行為については、否定的意見が挙がるというのは避けがたい事態であるだろう。そのように考えると、『エイリアン:コヴェナント』は、功罪を併せ持ったスリリングな存在だといえる。だがそれは同時に、作り手の立場からすれば、間違いなく挑戦的行為だともいえよう。元の作品に影響を及ぼさない作品は、ただの独立したエピソードであって、「プリクエル」としての可能性を追求しているとは言えないからである。その意味において、オリジナルの監督が本作を手がけることができたという意味は大きい。何よりもリドリー・スコット監督が、『エイリアン』第一作が公開されてから38年経って、なお新しいものを創造しようという変わらぬ熱意を持っていたという事実が嬉しい。この挑戦的な姿勢によって本作は、「プリクエル」作品としての存在感を発揮し、また第一作同様に作家性を強く感じるものになっているといえよう。(小野寺系)