「嫌なら見るな!」という言葉を聞いたことがあるだろうか。テレビ番組などのコンテンツに対し、ネット民が「つまらない」とか「辞めろ」なんて野次を飛ばすことがある。そういった声に対し、コンテンツの提供者側がしばしば用いるのが「嫌なら見るな!」である。
一見すると筋が通っているようにも思える言葉だけど、最近では意識していないのに勝手に目に飛び込んでくる不快なコンテンツってのもある。敢えて名指ししないものの、「お前が無思慮にガンガン発信してなければ反感も抱かれないのに、嫌なら見るなとはどうなのか」と思ってしまうケースも少なくない。(文:松本ミゾレ)
「見なければ具体的に論評はできない」という意見も分かるけど…
なんでこんな話をしているのかと言えば、先日2ちゃんねるで「嫌なら見るな!←見ないと具体的に批判できないやろ」なるスレッドを見かけて、色々と考えさせられたからである。スレッドを立てた人物曰く「見ないで批判とか、バカ以外の何物でもない」などと説明している。
これに関しては、そもそも批判ありきの視点でコンテンツを見ても、新たな批判しか生まれないのでは? という気しかしない。スレッドでも「批判するために見るのか」と戸惑いのリアクションを書き込む人がいた。
「見ないことには具体的に批判できない」って、なんという刺々しい言葉だ。最初から批判する材料を探すために特定のコンテンツを見るなんて、生産性がなさすぎる。
「見た結果批判するのは分かる。批判のために見るのは分からない」結局これに尽きる
ただやはり、向こうから飛び込んできたコンテンツが極度につまらない場合、僕なんかはクソミソにぶっ叩きたくなる。本来見る気もなかったようなモノを、こちらが意図していないタイミングで見せられてしまえば、腹を立てないでいることの方が難しい。
これはきっと僕だけではないはずだ。まあ、叩くか叩かないかの違いはあるかもしれないけど、間違いなく気分を害することにはなるはず。今回このスレッドを読み進めていくと、このような書き込みが目を引いた。
「見た結果批判←わかる。批判する為に見る←バカかな?」
今回のテーマをもっとも簡単に終結させる文言としては、これが恐らく一番適切ではないかと思う。見せられて批判する。これはもうしょうがないことだ。だって当て逃げの被害者みたいなものだもん。
だけど、わざわざ好きでもないコンテンツを批判するために見るというのは、何度も言うように建設的ではない。その熱量は評価するけど、熱量の方向性があさってを向いてしまっている。指摘しなくても当人たちも分かっているはずだけど。
というか、いくら自分の意思であろうと、嫌いなコンテンツをわざわざ批判するために観察するというのは、精神衛生上良くない。そういうことをしているとストレスが溜まりそうだし、その批判を目にした人々にまでストレスを与えてしまう。いいことがない。
できればそんな無駄なことは辞めた方がいい……んだろうけど、こういうことをする人ってそれこそ性分でやってることが多いから、きっとこのアドバイスなんか効果ないんだろうなぁ。僕もそういう人間だからよく分かる。