ホンダがイタリアGPで往年の名車『RA300』をレース直前にモンツァで走行させるというイベントを行った。RA300は1967年にジョン・サーティースによって、2勝目をもたらした伝説のマシン。しかも、その勝利はモンツァだったということから、優勝50周年を記念した歴史的なイベントだった。
この手のイベントは、サーキット内の特設ブースに単に展示するだけのケースと、今回のように実際にサーキットを走行させるデモランがある。もちろん、後者の方が何倍も苦労は多い。それでも、ホンダは後者を選択した。現在、栃木県さくら市にある研究所『HRD SAKURA』でヒストリックカーのメンテナンスを担当している砂子直人はその理由を次のように語る。
「ホンダは動体保存にこだわっています。それはクルマは見るだけでなく、エンジン音を聞いたり、皆さんの五感に伝えたいからです」
砂子は第3期F1活動時にイギリスのHRDに駐在し、現場責任者としてF1マシンを整備していた。現場を退いたいま、第1期F1活動の名車をモンツァで再び走らせる大役を任されたわけだ。
「50年前の先輩たちが託された思い出のマシンを走らせることができてホッとしています」と言う砂子には、もうひとつの仕事があった。それはこの歴史的名車を若い世代に受け継ぐことだ。
じつはモンツァでのデモランは前日の大雨でサポートイベントが日曜日にずれ込み、慌しい中で行われたため、事前の打ち合わせ通りにすべてが行われなかった。たった1台のRA300を走らせるために、日本からモンツァへ来ていたスタッフは砂子をはじめ7名がいたが、半分以上が砂子よりも若い世代だった。
イベント自体は成功したが、ある点に関して確認作業を怠った若いスタッフを、砂子はイベント後、注意した。世界にたった1台しかない名車をこれから50年、100年と後世に受け継がなければならない。それを実際に行うのは若い世代。愛のムチだった。
今回、RA300を走らせるドライバー選択にも、ホンダなりの考え方があった。それは、クルマは見るだけでなく、乗ってみて五感で楽しむものだというホンダのクルマに対するフィロソフィーと、それを若い世代にも体験してほしいという未来志向があった。
「私たちの中には往年のドライバーを乗せるという選択肢はなかった。このクルマは『何がなんで勝つ』という精神でローラと共同作業して作ったもの。何がなんでもF1に行きたいという者に乗ってほしかった」と砂子は語る。
そのため2カ月前のグッドウッドでは松下信治が走らせ、モンツァでは福住仁嶺がステアリングを握った。
「想像していたよりも、パワーがあってビックリしました。50年も前に、こんなマシンがあったんですね。もっともっと、乗っていたかった」とデモラン後の福住は興奮気味だった。
このRA300がレースに出場していたときにホンダの監督を務めていた中村良夫さんは1994年に、50年前のモンツァでステアリングを握っていたジョン・サーティースは今年の3月に天に召され、いまはもういない。
「でも、あなたたちが走らせてくれたRA300は、若い世代にしっかりと引き継がれ、いまでも元気ですよ」
デモランを終えたRA300からは、そんな声が聞こえてきた。