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la la larks、結成5年で見せた成熟した魅力 1stアルバムの卓越した音楽性に迫る

2017年09月10日 13:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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5人組ロックバンド、la la larksが1stアルバム『Culture Vulture』をリリースした。


 2年前に彼らの2ndシングル表題曲「ハレルヤ」を聴いたとき、いやもっと厳密に言えば、あの曲の中盤から終盤へと向かうあたりで突如メインに現れるサックス・パートの衝撃がずっと脳の隅っこに張り付いていて、その時からいつアルバムを出すのかと首を長くして待っていたのだが、バンド結成から5年が経過した今、ようやくその日が来たようだ。


 それ故だろうか。正直、1stアルバムという気がしない。どこか成熟したバンドの魅力がある。もちろん、ボーカルの内村友美はSchool Food Punishmentでずっと日本のロックシーンを牽引していた存在なわけだし、ギターの三井律郎は現在LOST IN TIMEでも活躍しており、過去ベースのクボタケイスケはSadsで、ドラムのターキーはGO!GO!7188で各々が長年に渡ってバンド活動してきた者たちだ。特にギター兼キーボードを務める江口亮は、Stereo Fabrication of Youthとしての活動の傍ら、ポルノグラフィティやいきものがかりといったビッグネームの編曲を担当したり、近年はさユりやLiSA楽曲のアレンジャーとしても注目を集めている。


 la la larksの音楽性の基盤は、こうした腕のあるメンバーたちの存在にある。それぞれに実績のあるプレイヤーが集まって何かひとつの新しいことを始めようとする姿勢が、このバンドのベースにある思想なのだと思う。しかし、そうしたプロフィール的な情報だけでは片付けられない、熟練した技量と強烈なパワーがこの作品には込められているように感じるのだ。


 まずこのアルバム、1曲目の「Massive Passive」から物凄いことになっている。何が凄いのかと言えば、まずメロディが凄い。全体的にマイナー調の旋律で覆われたこの曲。サビで激しく上下するメロディのいびつさは、昨今あまり見かけないものだ。非常に難解な形状の旋律でありながらも、どこか荘厳で耽美的である。ここでの内村の歌唱は、地声とファルセットとそのミックスを自在に行き交いながら、まるで着地点を探しているかのように目紛しく発声方法を変化させ、疾走する曲調を華麗に乗り熟しながら、息もつかせずに2コーラスを歌い切る。するとこの曲で最も美しい箇所がやってくる。<灰になるまで 水のように 在るべき場所へと 向かえたなら 心は静まり返っていく 胸を打つ鼓動 合図が 聞こえる>。このDメロを聴いた時、筆者はこの作品を単なるポップスやロック・ミュージックのように軽い気持ちで聴いてはいけないのだと襟を正した。


 4曲目「end of refrain」のエレクトロニックなアプローチであったり、レイドバックした6曲目「たりない」の優雅なブラス・セクションであったり、アルバム内では計4曲に施されたストリングスのアレンジであったり、いわゆるありふれたロックではない熟練したサウンドで満ちている。対して、9曲目「失う」の鋭利なギターの響きや硬質なピアノ、ラスト3曲の力強さは、ロックバンドのそれであったりする。このアルバムは、ロックの持つ”パワー”と”熟練の技”、その両者を兼ね揃えた作品なのだ。


 「すべてのエセ音楽知識人(=”Culture Vulture”)へ」という副題が添えられたこの作品。昔と比べて今は誰もが大量の音楽に簡便にアクセスできる。誰でもそれなりに”エセ知識人”になれる時代なのだ。筆者もまた”Culture Vulture”のひとりである。そうした状況にこのバンドは挑戦しようとしているのだ。ありふれたものは作らない、そうした気概と意気込みを感じさせる作品であった。(荻原 梓)