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渡邉大輔の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』評:『君の名は。』との関係と「リメイク映画」としての側面を考察

2017年09月09日 09:53  リアルサウンド

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■24年ぶりのアニメ化リメイク


 現在劇場公開中の新房昭之総監督・武内宣之監督によるアニメーション映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』は、知られるように岩井俊二監督が1993年に手掛けたテレビドラマ『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(連続オムニバスドラマ『if もしも』の一編として放送された後、95年に再編集して劇場公開)のリメイクです。


参考:『君の名は。』の大ヒットはなぜ“事件”なのか? セカイ系と美少女ゲームの文脈から読み解く


 「原作」となった50分のドラマ作品は、九十九里浜に面した千葉県飯岡町(現在の旭市)近辺を舞台にした少年少女たちのひと夏のジュブナイルラブストーリー。地元の小学校に通う典道(山崎裕太)と祐介(反田孝幸)は親友同士でしたが、ともに同級生の美少女、及川なずな(奥菜恵)に片思いをしています。ところが、なずなは両親の離婚により、密かに夏休み明けの転校を控えていました。ある時、プール掃除の合間に水泳競争をしていた二人を見かけたなずなは、勝った方と町の花火大会の日に駆け落ちしようと思いつきます。他方、典道の友人たちは放課後の教室で「打ち上げ花火は横から見たら丸いのか、それとも平べったいのか?」という疑問をめぐって議論をしていました。ついに彼らは町の外れにある飯岡灯台に昇って確かめようということになります。物語は打ち上げ花火の謎をめぐってささやかな冒険に出掛ける少年たちと、プール競争の結果によって二つの異なった運命を辿ることになる典道となずなの小さな恋物語を交錯させながら描いていきます。


 繰り返すように、本作は連続テレビドラマの一編として放送されながらも、当時珍しかった「フィルム効果」を使って撮影され、逆光やソフト・フォーカス、レンズフレアなどを駆使した繊細で情緒的な映像表現、独特のフラッシュカットなど後に「岩井美学」と称されることになる岩井独特の映像世界が早くも縦横に展開され、放送直後から大きな反響を呼びました。他ならぬぼく自身も当時、小学6年生の夏休みの終わり、たまたまオンエア時に観て強い印象に残ったことを覚えています。同年にはテレビドラマ作品としては異例の日本映画監督協会新人賞を受賞し、映画監督進出に繋がる岩井の出世作となったばかりか、その後もカルト的な名作として一部で熱狂的に支持され、またオマージュやパロディの対象になってきました。とりわけ有名なのが、今回のリメイク版の脚本を担当した大根仁の演出によるテレビドラマ『モテキ』(10年)の中のパロディでしょう。第2話で登場人物の一人、中柴いつか(満島ひかり)が本作の大ファンという設定で、ロケ地を「聖地巡礼」する様子が描かれるのです。


 そして、発表から24年を経て今回作られた90分のリメイク版ではとりわけ後半部分の展開が新たに付け加えられ、アニメならではの実写原作では不可能だった幻想的な物語が描かれることになります。


■「悪い場所」としての『君の名は。』との距離感


 さて、劇場公開からすでに3週間あまりが経過していますが、目下評判は賛否両論といったところでしょうか。


 その大きな原因の一つは、やはり昨年社会現象的な大ヒットを記録したアニメ映画『君の名は。』(16年)との(ぼく自身も含めた)観客側の予断的な比較にあったことは間違いがないでしょう。それもそのはず、まず本作は『君の名は。』と同じ東宝の敏腕プロデューサー、川村元気による企画であり、『君の名は。』の大ヒット以降、急速に台頭してきた一連の「アニメ映画ブーム」の延長上に位置づけられ、なおかつ『君の名は。』同様、夏休み興行の「青春ラブコメSF」という枠組みで作られ、公開されているからです。また、映画の宣伝ポスターや予告編もどこか『君の名は。』を意識したようなデザインや構成に見えます。


 もとより、ここ数年の日本映画界は13年の宮崎駿監督の引退宣言と翌年のスタジオジブリ解散に始まるいわゆる「ポストジブリ探し」——つまり、ニッチな「アニメオタク向け」ではなく、高い作家性と幅広い大衆性を兼ね備えた「一般向け」の大作アニメの潮流の開拓に躍起になっているところがあります。むろん、今年の宮崎の引退撤回と新作長編製作開始で若干潮目が変わった部分はありますが、これはもはやエピソードに過ぎず、大局的な流れで本質は変わらないでしょう。そして、ここ数年は宮崎と同じ東映動画を出自とする細田守が誰の目にもその急先鋒とみなされてきました。が、周知のように、『君の名は。』の「ワンチャン的」な(「前前前世」ならぬ)大大大ヒットによって、「ポストジブリ」の系譜は奇しくも本来、彼らとはまったく文脈が異なる場所から出発し「国民的」クリエイターとなった新海に連なることになったわけです。


 いずれにせよ、ジブリ同様、実写の有名監督の名作を原作にするというアニメファン以外の観客にも広くアピールするフックを設け、あまつさえ後述するように、他ならぬ新海に大きな影響を与えた岩井作品のアニメ映画化という『打ち上げ花火』の企画は、さまざまな点でまさに「ポストジブリ的」な要素に満ちており、その意味で昨年の『君の名は。』のような娯楽大作を期待して足を運んだ観客も多かったに相違ありません。


 実際、『君の名は。』もまた、細田守的な「同ポ」ショットの反復(閉まるドアや扉の超ローポジション)など、過去の著名なアニメ作家の指標的な演出を意識した画面が目についた作品でしたが、それを意識してかどうか、今回の『打ち上げ花火』もまた、それに近いショットや演出がいくつか見られました。例えば、主人公の島田典道(菅田将暉)とヒロインの及川なずな(広瀬すず)が茂下駅から電車に乗って駆け落ちする岩井版にはない映画後半のシークエンスは、むろん直接的な着想源は、本作をめぐるドキュメンタリー『少年たちは花火を横から見たかった』(99年)でも語られたように、もともと原作の発想元にあった宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』に由来しているものの、海の上を走る単線電車のイメージは、紛れもなく宮崎駿の『千と千尋の神隠し』(01年)のクライマックスを思わせますし、また作中でヒロインのなずなが佇む大きな風車の回る花畑で、足元に咲く花が風に揺れる描写は細田守の『おおかみこどもの雨と雪』(12年)の冒頭シーンを髣髴とさせます。さらに、本作では主人公たちが通う中学校の担任教師・三浦先生役として花澤香菜が登板していますが、これもまたいうまでもなく『君の名は。』(とその前作『言の葉の庭』〔13年〕)のヒロイン・宮水三葉(上白石萌音)の高校の国語教師「ユキちゃん先生」への目配せを感じさせる配役となっています。


 以上のような『君の名は。』の細部との類似点からも、今回のリメイクが製作側において「ジブリから『君の名は。』へ」の系譜をまったく意識しなかったわけではなさそうです。とはいえ、そうした期待で観た一般観客たちとっては、今回の『打ち上げ花火』の後半の冗長な繰り返しの展開(テーマ的にはこれは避けられないのですが)や、物語的カタルシスには相対的に弱いラストなどは、確かにいささか拍子抜けするところがあったのでしょう。


 むしろ、アニメファンや評論家にとっては、今回のリメイクは、いわゆるジブリ系の一般向けアニメや実写映画の観客であれば馴染みが薄いようなきわめて「アニメ的」な映像表現や演出にこそ注目すべき要素が多々あったようです。知られるように、本作の制作スタジオである「シャフト」と総監督の新房は、とりわけ2010年代以降、『化物語』(09年)、『魔法少女まどか☆マギカ』(11年)など、深夜アニメ発の話題作、傑作を数多く手掛けています。精細な分析はぼくより詳しい専門家のかたに任せたいのですが、確かに本作でも“物語”シリーズの渡辺明夫がキャラクターデザインを手掛けている他、作中には俗にファンの間で「シャフ度」と呼ばれるキャラクターが誇張気味に顎を上げ、首を後ろに反りながら振り返る動作(冒頭のなずなが典道を振り返って見つめるスローショットなど)や、シャフト作品に特有なエッジの効いたカッティングや奇抜なアングルなどが随所に登場します。また、石岡良治が『キネマ旬報』8月下旬号のレビュー(「増殖する「もしも」のただ中へ」)で指摘するように、なずなの「旧スクール水着」や「白いワンピース」といったかつてのオタク系コンテンツの符牒的なイメージの頻出もこうした文脈に回収可能なものでしょう。このように本作はむしろ先に述べてきたジブリ系アニメの系譜とは対照的な、ニッチなオタク系アニメファンの感性に馴染み深い演出によっても組み立てられており、実際、むしろそうした観点からこそ肯定的に評価する向きも多いように見えます。


 ここまでをまとめていえば、今回の『打ち上げ花火』を語る時に、先行する新海の『君の名は。』はむしろ美術評論家の椹木野衣のいう意味での「悪い場所」——歴史的かつ構築的なパースペクティヴを見失わせ、あらゆる文脈をグズグズにしてしまう回路として機能してしまっているような気さえします。しかし、ぼくの考えでは、「岩井俊二」と「新海誠」という名前の取り合わせはやはり現代の日本映画を考える時にきわめて重要な結びつきを担っており、やはり本作を語る上でも欠かせない要素だと思っています(この問題の詳細については、最近刊行された大澤聡編『1990年代論』〔河出書房新社〕所収の拙論で簡単に論じました)。したがって、ここではあえて『君の名は。』も意識しながら、本作の「リメイク映画」としての側面に注目し、そのいくつかの魅力をざっと述べていきたいと思います。


■岩井版からの継承と新海アニメとの交錯


 そこで、改めて『君の名は。』の話題から始めましょう。


 例えば、ぼくは昨年の『君の名は。』の公開直後に記したリアルサウンド映画部のレビュー(『君の名は。』の大ヒットはなぜ“事件”なのか?)で、このアニメ映画の持つ「(美少女)ゲーム的」な構造とその岩井作品との共通性を指摘していました。その要旨部分をちょっと引用してみましょう。


 『君の名は。』の物語構造や映像表現は、それ自体きわめて「(美少女)ゲーム的」だといえます。[…]


 そして、いうまでもなくこの演出は物語のキーポイントである三葉と瀧の身体の入れ替わりにかかわるいわゆる「記憶喪失」のモチーフとも密接につながっています。[…]


 さきほども述べたように、美少女ゲームや乙女ゲームを含めたノベルゲームの構造とは、視点プレイヤーの主観ショットから見た画像がディスプレイに表示され、プレイヤーは、背景画のうえにイラストで登場する複数の異性キャラクターとのそれぞれ恋愛ルートを分岐ごとの選択肢を選びながら楽しみ、恋愛が成就(「攻略」)すれば「トゥルーエンド」、失敗すれば「バッドエンド」という結末にたどりつく。その過程でプレイヤーのリニアな物語は何度も「リセット」され、事実上どこまでもループしてゆくというゲーム特有のノンリニアな構造をもっています。[…]


 いずれにせよ、もうおわかりのとおり、『君の名は。』の物語とは、いわばプレイヤーが感情移入すべき作中キャラクターから見た「可能世界」(世界線)が一回ごとに「リセット」されて幾度もループし続ける、ノベルゲーム的な構造を如実にそなえているといえます。さらにこの見立ては、物語の後半と結末で、瀧が糸守町に軌道を外れたティアマト彗星が落下して町民もろとも死んでしまう運命にあった三葉を、時空を超えて救いだすという展開にそのままつながってゆくでしょう。いわば『君の名は。』とは、ゲームプレイヤーが、ヒロインが死んでしまうという「バッドエンド」の可能世界(ゲームルート)から何度もリプレイを繰りかえして、ふたりが生きて再会する「トゥルーエンド」にいたるまでのゲーム空間だとみなせるのです。


 以上のように、かつてぼくは『君の名は。』の物語を、およそゼロ年代あたりからサブカルチャーコンテンツの中で流行したいわゆる「ループもの」や、批評家・東浩紀のいう「ゲーム的リアリズム」という形式に非常に近い印象を与える作品だと解釈しました。そして翻っていえば、これも引用した文章でも指摘したように、90年代前半に作られた岩井の『打ち上げ花火』(より正確にはこのドラマを含む『if もしも』というシリーズ)とは、実はこうした意味で「ゲーム的」(ノンリニア的)な想像力や構成を意識して作られた先駆的な作品だったということが言えます。


 改めて説明するまでもないでしょうが、本作は「(A)典道がプールの競争で勝ってなずなと一緒に駆け落ちするか、(B)それともしないか」という二つの分岐ルートが描かれた作品であり、その複岐的な構造は、タイトルの「下から見るか? 横から見るか?」にも反映されているものです。また、岩井自身がこうした作品の「ゲーム性」を強く自覚していたことは、作中で典道と祐介がスーパーファミコン(『スーパーマリオワールド』『ストリートファイターII』)をプレイする場面が登場することからも窺い知れるでしょう。あるいは、岩井はこうしたゲーム的な物語をこの後の『花とアリス』(04年)でも再び描くことになります(この点についても拙著『イメージの進行形』〔人文書院〕で論じました)。ともあれ、だからこそこうした『君の名は。』のゲーム/ループ的な物語構造を、やはり本作のエンドクレジットでスペシャルサンクスに名前が掲げられ、新海自身がかねてからその作品からの大きな影響を公言している『打ち上げ花火』を含む岩井の作品群に由来を求めることはさほど不自然ではないでしょう。


 さて、以上の文脈を踏まえながら、今回のリメイク版の演出をもっと具体的に見てみることにしたいと思います。


 まず第一に、今回のアニメにおける原作ドラマからの改変は、主人公たちが小学生から中学生へ、舞台が現実の飯岡町から架空の「茂下町」へと変更されたことなど、大きな要素がいくつか見られますが、その重要な要素の一つにループ=可能世界のより一掃の多層化が挙げられます。


 原作に比較して約40分近く物語が長尺になったこととも関係しますが、岩井版では1度だけだった「時間の逆行」=リセットと分岐ルートが、本作では3度に増えています。映画ではこの物語的な改変を象徴するかのように、全編にわたってループ=循環のイメージを喚起する物体がそこかしこに頻出します。例えば、中学校の校舎や茂下灯台の螺旋階段、海岸沿いに並ぶ巨大な風車、なずなの部屋に吊るされたミラーボールのような形の照明家具とイサム・ノグチの「AKARI」、あるいは校庭の芝生に設置された水撒きなどなど、新房たちは「循環」や「回転」を思わせるガジェットを多数散りばめることによって、本作固有のテーマそのものを巧みに形象化しているのです。また、同じことは物語前半の印象的なプールのシーンでもいえるでしょう。ここは作中で典道となずなが初めて言葉を交わす重要なシーンですが、そのきっかけとなる、原作ではなずなの首筋についたアリが、今回はトンボに変更されています。そして、典道がなずなからトンボを追い払った後、映画は空高く上昇していったトンボのPOVショット(見た目ショット)をインサートします。このPOVの画面では上空を見つめる典道となずなの姿を、トンボの複眼を模していくつも分割されたフレームで見せていますが、これもいわば物語後半のループ=「もしも」の増殖をはるかに暗示する演出といえるでしょう。


 また第二に、本作ではかつての原作の岩井美学に特徴的な映像表現(作画)も種々取り入れられています。例えば、キャラクターたちのPOVショットによる繋ぎ、淡いソフト・フォーカス、青空の陽光のレンズフレアなどです。あるいは、なずなが自宅の前で母親(松たか子)に強引に腕を引っ張られて連れ戻されるシーン。原作では岩井特有のジャンプ・カットで描かれていたところを、シャフト作品ならではのシャープなカッティングとも相俟ってかなり忠実に再現していました。


 さらに岩井的な映像の継承という面では、付け足された物語の後半に登場するなずなの歌唱シーンにも注目しておくべきでしょう。2度目の「リセット」を経て茂下駅のプラットフォームから典道とともに電車に乗ったなずなは、車内で母が好きだったという松田聖子の「瑠璃色の地球」(1986年)を口ずさみます。すると、暗くなった車窓の外にドレス姿の自分が映り、そのままなずなと典道は電車を飛び出し、馬車に乗って非現実的な空間に辿り着くと二人で歌いながら踊ります。この通常の物語から逸脱して楽曲の歌唱とともに踊るシーンは、いわばここだけどこか「ミュージック・ビデオ」の演出を思わせます。この演出もまた、映画監督やドラマ演出家のさらに以前、もともとミュージック・ビデオの演出から映像の世界に入ったという岩井のキャリアに対する新房や大根の目配せのようにも感じられるシーンなのです。


 しかし、ここで急いでつけ加えなければならないのは、やはり以上の本作の一連のシーンは、単に原作の岩井の作品だけでなく、それが影響を与えてもいる新海のアニメを間に挟んで観られなければならないということです。というのも、これもいまや有名ですが、本来アニメ作画には不要なはずのレンズフレアの描きこみなど、いわゆる「アニメにおける擬似実写的演出」は、岩井美学も意識しつつ、他ならぬ新海が自作で積極的に試みてきた特徴的な手法でもあったからです。この「アニメの擬似実写的演出」は、新海の他にも、山田尚子監督の『映画 聲の形』(16年)をはじめ、昨年のアニメ映画ブームの中で一挙にメジャーに認知された感がありました。今回の『打ち上げ花火』でもまた、なずなたちのプールの飛び込みシーンやなずなの部屋、典道の家のトイレなど、いたるところで広角レンズ風のショットが登場するところにも、本作がこうした傾向を踏襲しようとしていることが窺われます。


 したがって、アニメ版『打ち上げ花火』の数々の演出は、岩井の実写版原作へのレスポンスであるとともに、それは同時に、やはり「岩井チルドレン」である『君の名は。』の新海のアニメとの関係においても見られなければならないのです。


■デジタル時代特有のアニメ表現


 以上のように『打ち上げ花火』をめぐる新房、岩井、そして新海のトリアーデを設定してみた時、さらに見えてくるものは何なのでしょうか。


 それはおそらくは映画をはじめとする昨今の「映像のデジタル化がもたらしている文化表現の変化」という問題系だろうと思われます。例えば、よく知られるように新海や山田、そして今回の『打ち上げ花火』をはじめとする「アニメの擬似実写的演出」というのは、やはりこうした映像のデジタル化に伴う「実写とアニメの融合」という事態が深く関係しているはずだからです。映像の媒体がアナログ(フィルム)ではなくなり、デジタル合成やデジタル作画が主流になってくると、例えば昨今のハリウッドの「マーベル映画」などが典型的なように実写映像は限りなく「アニメ」と見分けがつかなくなってきます。アメリカの有名なメディア研究者レフ・マノヴィッチはこれを、「デジタル時代の映画とは、実写の部分を多く含むアニメーションの一例である」(『ニューメディアの言語』)と定義しています。また、アニメの方でも例えば「聖地巡礼」の舞台となるテレビアニメの背景画のように現実の風景写真をデジタルでトレースして作画するというようなスタイルが浸透していきます。もちろん、日本のアニメに実写レンズ的意識をレイアウトシステムとして導入したのは、何も彼らが最初ではなく、大友克洋や押井守など90年代以前から重要な前例はいくつかあったことはよく知られています。しかし、その試みが広くメディア表現として時代的意味を持つのは、やはりデジタルシネマやデジタル作画が完全に浸透したゼロ年代以降であったでしょう。アニメと実写の両方を手がける押井がかつて先駆的に述べたように、「すべての映画はアニメになる」状況がいま、本格的に到来しているのです。


 ともあれ、ここでもまた岩井と新海という名前は重要な意味を持ってきます。拙著を含めこれまでにも再三論じてきたように、岩井は、日本映画の監督の中でも早くから先端的なデジタル技術に関心を示し、自作の製作に積極的に取り入れてきた作家でした。短編『undo』(94年)ではノンリニア編集(Avid)、『四月物語』(98年)ではデジタルサウンドシステム、『リリイ・シュシュのすべて』(01年)ではHD24Pなどを日本映画で初めて、あるいは本格的に導入したことで知られています。そして、ここには近年の岩井が『花とアリス殺人事件』(15年)などで本格的に自らもアニメーション製作に乗り出していることも付け加えるべきでしょう。


 また他方、新海も、いうまでもなくデジタルアニメーションの先駆的な傑作『ほしのこえ』(02年)で脚光を浴びたことからも明らかな通り、デジタル世代のアニメを代表する作り手とみなされてきました。そして、こうした感性はもちろん、岩井に影響を受けた今回の『打ち上げ花火』の新房や大根にも共通しているでしょう。


 そして、ここで不意に気づかされるのは、他ならぬ岩井の『打ち上げ花火』にも実はその主題の中心部分に今日のデジタル的な感性を予言的に示す隠喩系が込められていたのではないかということです。そして、先取りしていえば、それは紛れもなく今回の『打ち上げ花火』の特徴的な演出にも受け継がれ、取り入れられているでしょう。


 例えば、この作品の物語の一つの軸を担っている、作中で少年たちが言い争う「打ち上げ花火は横から見ると、丸いのか? 平べったいのか?」という問い。思えば、これは「2D(平面)なのか、3D(立体)なのか?」という問いへと置き換えられるものです。そして、それはそのまま「平面=セルアニメか、立体=実写的対象か?」というメディウム的区分の連想へと発展しえます。そう、つまり、「打ち上げ花火は横から見ると、丸いのか? 平べったいのか?」という問いとは、もとよりネットや携帯端末といったデジタルメディアが本格的に普及する直前の93年に岩井から早くも投げかけられていたアナログとデジタル、フィルムとCGといったメディア的な対立と移行を隠喩的に問題化するモティーフでもあったといえるわけです。


 そして、おそらく今回の『打ち上げ花火』のスタッフは、その間に新海が達成した成果も踏まえつつ、24年前に岩井が投げかけた問いを「ポストメディウム」などとも呼ばれるデジタル環境が浸透しきった現在において、きわめてアクチュアルな形で作品に反映させているように思います。その例をいくつか挙げておくと、本作では画面の構図がアニメ表現にふさわしく、登場人物や物体の周囲を、空中を舞うようにグルグルと動き回るレイアウトが多数取り入れられています。なずなが自宅前で母親に連れ戻された後、典道が「もしも玉」を投げると、舗道の掲示板の前の空中で玉が浮いて止まる。映画の画面はその玉と典道の姿の周りをまるで虫のようにグルグルと巡ります。このもちろん原作ドラマにはない特徴的なカメラワークは、ある意味で現在、映画撮影でも主流になりつつあるGoProやドローンなどのモバイルな撮影端末による映像を観客に容易に想起させるでしょう。あるいは、物語の後半で典道となずなが見る、非現実的な形の打ち上げ花火の数々は、現実の花火というよりも、いまの私たちの目には、舞台パフォーマンスなどでも積極的に導入されているデジタル映像によるプロジェクションマッピングによく似ているのです。


 つまり、アニメ版『打ち上げ花火』には、原作放送からおよそ四半世紀の間に日本の映画や映像文化の中で浸透し、その本質の一部が昨年の『君の名は。』にも反映されていたメディア環境の変化(デジタル化)が、さまざまな文化表現や演出、主題となって巧みに込められているといえます。その意味で、本作はおよそ四半世紀前に岩井が投げかけていた映像をめぐるさまざまな問題に対し、現在の映画・映像をめぐる状況の中から一定のレスポンスを返した「リメイク」として示唆に富む作品になっているといえるのです。