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欅坂46の近況やAKB48ドキュメンタリーなどから考える、アイドルの“疲弊”を物語化する危うさ

2017年09月06日 17:42  リアルサウンド

リアルサウンド

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 2017年の8月は欅坂46にとってライブの月であった。前月にリリースした1stアルバム『真っ白なものは汚したくなる』を掲げての、全国6カ所11公演のアリーナツアーが8月いっぱいをかけて組まれ、またその合間には『TOKYO IDOL FESTIVAL 2017』『ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2017』『SUMMERSONIC 2017』といった大規模フェスへの出演も重ねている。常設劇場を持たない坂道シリーズにあって、欅坂46が急速にライブの経験値を積み重ねる夏になった。


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 一方、ライブが続くスケジュールの中で、特にセンターの平手友梨奈がコンサート中に途中退場あるいは欠席するなど、メンバーの疲弊が表にあらわれる局面も話題になった。それはデビュー直後から乃木坂46やAKB48グループの草創期を遥かに凌ぐ勢いで広く受容されてきたことに加え、平手を絶対的な中心に据えた表現を志向してきた欅坂46が、潜在的に抱えてきた課題でもあったのかもしれない。大会場でのライブが続く8月に入り、ライブパフォーマンスでその課題が顕在化したとも考えられる。こうした苦境にまつわる話題は、SNS上などでもファン以外にまで波及するトピックとなった。ともすればパフォーマンスの総体よりも疲弊する姿が人々の耳目を引いてしまうことで、その様子はさまざまに解釈され、時にはグループ全体に対して「使役」の構造を見出して俎上にのせるような議論もあらわれた。


 もっとも、このような演者の疲弊について、運営が演者に「やらせている/やらされている」といった、主体性や使役構造をめぐる視点にのみ回収することには慎重になった方がよい。なによりそうした論点は、アイドルというジャンルに数十年前からついて回るステレオタイプな図式を引きずりつつ、自作自演のパフォーマンスであるか否かを演者の主体性の有無に結びつけるような、時代錯誤の議論ともたやすく結託し、論点をいたずらに拡大してしまう。演者であるアイドル自身が、有形無形の方法で自らのコンディションを発信する可能性がいくつも開かれ、またアイドルシーン自体が実践者のセルフプロデュースを肝にした表現のフィールドともなっている今日、主体性をめぐる議論にはより繊細な視野が求められる。また、運営スタッフと演者双方の意思がどのように関わり合い、どのようなバランスをもったとしても、度を越した疲弊状態に陥ることは十分に起こりうる。言い方をかえれば、「やらされていない」自発的な行動の上であれば演者が著しい疲弊のさまを呈しても問題ない、ということにもならないはずだ。


 そうした、主体性をどこに求めるかという議論からは一旦独立させたうえで、なお考えるべきは「演者が追い込まれ疲弊するさま」がコンテンツの一部として消費されてゆくことのあやうさについてである。かつて、高橋栄樹監督によるAKB48のドキュメンタリー映画『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』(2012年)が、既存のAKB48ファンの外部にまで強いインパクトを持ち得たのは、必ずしもポジティブな反響ばかりを呼び起こしたからではない。同作品で最も有名なシーンは、西武ドーム公演に際して明らかな疲弊を晒すAKB48のメンバーたち、特に前田敦子が明らかに消耗しながらもステージをこなす姿を捉えたものだ。その映像は有無を言わせぬ迫力をもって我々を圧倒した。しかしそれはまた、スケジュール等管理体制の不備から引き起こされた無理のある環境に置かれたメンバーの、疲弊するさまこそがコンテンツ化されているということでもある。だからこそ、その映像はアイドルを受容する者たち自身を捉え返すような批評性を帯びているし、同作が呼び起こす感動はどこまでも後ろめたい。


 グループアイドルが群像劇としての側面を大きな訴求力にし、また演者たちもその群像劇内における立ち回りをセルフプロデュースのために作用させている以上、グループの紆余曲折を描くドキュメンタリー性が大きなアトラクションになることは必然であり、それ自体に善し悪しはない。けれども、物語の要所としてメンバーの疲弊を映し出すこと自身が、「感動」の名のもとにエンターテインメントの中枢を占めてゆくことになれば、それはやがてアイドルの生身の身体をかえりみることを忘れさせていく。残酷性のエンターテインメント化は時に、受け手にとっても送り手にとっても、美談の顔をしてやってくる。


 もちろん、若年期のあるプロセスにおいて、何かの目的に向けて一時的に精神や身体を追い込むこと全般を否定するのは無理がある。ライブパフォーマンスに向かう者たちが心身を酷使する局面があったとして、それが必要とされるストイシズムなのか否かについて截然としたボーダーラインはあらかじめ存在しないし、どこに歯止めをかけるかについての普遍的な正解などない。AKB48であれ欅坂46であれ、そうした緊張状態の身体をもって虚構の世界観を高水準で幾度も描いてきた。そうした高揚と不可分だからこそ、疲弊のエンターテインメント化は我々がそうと気づかないうちに進行してゆくことがある。そして、創作表現の送り手と受け手の双方に、その身体の極限状態をドラマとして供給/消費することへの抜きがたい誘惑もあるはずだ。


 逆境に対峙してそれを乗り越えてゆくという成長の道筋は、きわめて古典的な物語構造である。それだけに、生身として疲弊する身体がどうにかパフォーマンスをまっとうする姿は、容易に「感動」の枠組みと共振する。疲弊による「感動」が演者の心身を過剰に侵していないか、それはライブを作り上げてゆくなかで送り手と受け手の双方がその都度、動的なプロセスとして意識してゆかねばならないのだろう。(香月孝史)