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映画『関ヶ原』が描く新しい歴史観ーー岡田准一演じる石田三成の人物像は妥当か?

2017年09月03日 12:02  リアルサウンド

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 戦国時代最大かつ天下分け目の合戦、「関ヶ原の戦い」。豊臣秀吉の死から2年、武将たちが「西軍」と「東軍」に分かれ、いまの岐阜県西端に位置する“関ヶ原”で雌雄を決した。この勝敗の結果がもし変わっていれば、いまの日本とは全く違う歴史、全く違う都市機能が生まれていただろう。意外なことに、日本映画としてその戦いをメインに据えて真正面から描いたのは、本作『関ヶ原』が初めてだという。


参考:V6はジャニーズの天下をとるか? 岡田准一『関ヶ原』で見せた役者としての実力


 司馬遼太郎による原作小説『関ヶ原』は、上、中、下、三巻に及ぶ長編だが、興味深いことに、実際に戦いそのものを描いているのは、下巻の一部分のみである。それは、この戦いを描ききるためには、その前提である勢力の状況や地理的条件、各々の事情や政治的な駆け引きなどという背景部分を細かく描写しなければならず、むしろ「そっちこそが本質部分だ」と考える、作家的な信念や野心の反映だろう。


 そのような背景描写への熱意というのは、社会の暗部を取材したドキュメンタリー作品だったり、リアリティを追求したシミュレーションゲームを構築するような感覚に通じているように感じられる。こういった映画化作品には前例があって、同じ東宝で1994年に撮られた、市川崑監督の『四十七人の刺客』は、何度も映画の題材になった『忠臣蔵』の討ち入りまでを、原作にも従って、やはりゲームのような知的な駆け引きとして描き直し、大人の好奇心をくすぐる新しい時代劇映画を完成させている。1964年に書かれた司馬遼太郎の『関ヶ原』は、その原型にあたる。


 それだけに、ゲームの駒ともなる大勢の登場人物が複雑に入り乱れる物語を、限られた上映時間内で整理しながら進行させていかなければならない本作の監督を、『金融腐蝕列島 呪縛』や『日本のいちばん長い日』(2015年版)などで、入り組んだ群像劇を撮った実績がある原田眞人が務めるというのは妥当だといえよう。


 本作のカット数はきわめて多く感じる。一つのシーンのなかでも目まぐるしくカメラアングルが切り替わり、移動撮影もよく見られる。それが軽快なリズムを作り出し、静的な会話シーンの多い場面に、カメラの側からの躍動感を与えている。このあたりの演出が、ポリティカルな群像劇を撮るときの一つのコツであろう。


 とはいえ、やはり映画では時間的な制約によって、どうしてもエピソードの大半を削らねばならない。本作は、あくまで岡田准一が演じる「西軍」石田三成を中心に据え、石田三成の腹心となる島左近(平岳大)との友情や、役所広司が演じる徳川家康の謀略を並行して描いていく。映画ならではの見どころとして、有村架純演じる“初芽”と三成の恋愛部分を膨らませている部分もある。


 奇妙なのは、かなりタイトな内容にも関わらず、原作の冒頭に書かれた、さして本筋には関わってこない“筆者(司馬遼太郎)の思い出”部分は、何故か丁寧に映画に組み込まれているという点である。その冒頭の場面で、町のおとなたちに「かいわれさん」と呼ばれている老人が、滋賀県の寺の縁側で、少年時代の司馬遼太郎に、こう語りかける。


「いま座っているここに、太閤さん(豊臣秀吉)が腰をおろしていた。鷹狩りの装束をなされておった。その日も夏の盛りでな。今日のように眼に汗のしみ入るような日中やった」


 この老人は数百年前のことを、まるで「見てきたかのように」話すのである。それはまさに、時代小説家・司馬遼太郎のスタンスそのもののようでもある。司馬の作風は、膨大な史料をもとに綿密な時代考証を行うところにあるが、同時に、エンターテインメントとしての要素も強く、歴史上の登場人物が、いきいきとその場にいるように書かれる。それは人物像やエピソードを、司馬が大胆に創作したからである。もちろん、時代小説というのは基本的にそのようなものだが、それが本物の史料からくる深い知識と混ぜ合わされることで、あたかも全てが史実であるかのようにリアリティを持ってしまうのだ。


 吉川英治による娯楽小説『宮本武蔵』のイメージが、日本国民の武蔵のパブリックイメージを作ったように、いま日本で多くの日本人の頭の中にある坂本龍馬も、『竜馬がゆく』で司馬遼太郎が創造した、かっこいい“坂本龍馬像”なのである。以後の作品が、それらベストセラー小説のイメージに乗っかるかたちで、宮本武蔵や坂本龍馬を同様のキャラクターとして描いたために、そのイメージはさらに強固なものとなっている。また司馬作品は、NHK大河ドラマなど多くの映像作品の原作となっているのも大きい。「明治時代は良かった」という一部の歴史観を醸成する一翼を担ったのも彼である。


 時代小説や時代劇は、当然ながら史実とは異なる。それはドキュメンタリーのようなアプローチで、表面的に強いリアリティを感じる『関ヶ原』も、また同じことだ。本作が「かいわれさん」なる老人の怪しげな与太話として、物語を始めるという構図を残しているというのは、その前提を強調するためであろう。


 では、そのようなフィクションを利用して、映画『関ヶ原』が描こうとしたものは何だったのだろうか。それは、「正義を信じ理想を貫こうとする純粋な武将」として新たに創造された、本作の“石田三成像”と、他の登場人物との関係によって分かってくる。三成は、かつては理想に燃えて、より良い天下を作ろうとしていた豊臣秀吉が、周囲の環境によって堕落し、天下そのものが「利によってのみ動く」人間ばかりになってしまったことを嘆いている。その代表的な人物が、「狼のような野望を持って天下を手中に収めようとする武将」徳川家康なのである。


 前述したように、もしも石田三成が勝っていれば日本は、いまの日本とは違うものになっていたことは確かである。本作はここに、利益第一主義に奔走する現代の日本社会という問題を持ち出し、その原因を、三成の死、すなわち“正義の死”として表現することによって、現代的な視点からの思想的な意味づけを与えているのだ。そして、運命が決する「関ヶ原の戦い」に悲劇性とダイナミズムを与えようとする。果たして、ここに説得力を持たせられたかどうかというところが、本作を評価するポイントとなるだろう。(小野寺系)