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愛知県豊田市に“音楽フェス”を根づかせたパンクスの精神 炎天下GIGからの歴史を紐解く

2017年09月03日 12:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 愛知県豊田市。トヨタ自動車が本社を置くこの街には、ライブハウスやクラブといったバンドが演奏する環境が無い。


 それにもかかわらず、20年ほど前からこの街では様々な音楽が盛り上がりを見せ、現在では毎年10月に行われる『TOYOTA ROCK FESTIVAL』、5月に行われる『橋の下世界音楽祭』、7月に行われる『TOYOTA PUNK CARNIVAL』という3つの音楽フェスが行われている。


 TOYOTA ROCK FESTIVAL(通称トヨロック)は、トヨタスタジアムの外周部分の半分以上を使って行われるロックフェスティバルで、今年で11年目を迎える。今では2日間で延べ人数35000人ほどが訪れる豊田市最大のロックフェスティバルとなっている。


 橋の下世界音楽祭は、毎年5月に豊田大橋の橋の下に1から手作りで街を作り上げて行われる音楽祭で、東日本大震災の翌年から始まり、今年で6年目を迎えた。他の様々な音楽フェスとは一味違った日本ならではの音楽祭である。


(関連:『橋の下世界音楽祭』主催者・TURTLE ISLANDが語る、海外と日本のフェスの違い


 TOYOTA PUNK CARNIVALは今年で5年目を迎えた、トヨロックと同じくトヨタスタジアムの外周部分を使って行われるフェスである。フェス開始当初は若手パンクバンドだけで行われたフェスだが、去年あたりからベテラン、若手を問わず国内のパンクバンドが出演するようになり、今年は筆者のバンド・DEATH SIDEのほかにも原爆オナニーズも出演するなど、パンクにこだわった音楽フェス。若手が手作りで作り上げる、今後の期待が大きいフェスである。


 そして、この豊田というライブハウスもクラブも無い街で、こうした大きな音楽フェスが行われるようになったきっかけは、豊田市駅前で20年以上前に始められた『炎天下GIG』であると言って良い。


■豊田市駅前に“バンドが演奏できる環境”を作った炎天下GIG


 炎天下GIGとは、現TURTLE ISLANDのボーカルであり、橋の下音楽祭の主催であるYOSHIKIと、豊田のハードコアバンドORdERのKOHSUKEが中学の同級生で、一緒にバンドを始めたことが発端にある。


 YOSHIKIとKOHSUKEの二人は中学1年生のときにバンドをやり始め、パンクファッションで豊田市駅前をウロウロしていると、モヒカンやスパイキーヘアーなどのパンクな出で立ちでタムロしていた現ROTARY BEGINNERSのSOGAとその仲間たちにブーツを獲られそうそうになった。


 その「ブーツ狩り」での出会いが、今の豊田音楽シーンの始まりだった。


 ブーツ狩りにあったYOSHIKIとKOHSUKEは、自分たち以外に初めて見るストリートのパンクスに嬉しくなり質問攻めにあわせると、調子の狂ったSOGAたちはブーツ狩りをやめ、YOSHIKIやKOHSUKEと打ち解け仲良くなっていった。


 この出会いにより、SOGAやYOSHIKI、KOHSUKEでライブハウスの無い豊田市でライブをやろうと思い立ったのが、1990年代に駅前の野外で行われていた炎天下GIGである。そして、ライブハウスのない豊田市でライブをやろうと思い目をつけたのが、どこかの貸しホールや公民館などではなく、市内で一番人の集まる豊田市駅前だった。


 駅前のスペースを使った野外ライブのため、警察や役所、駅などに許可をもらいに行ったのだが、全て門前払いをくらったために「無許可ゲリラライブ」として炎天下GIGは始まった。


 当時中2だったYOSHIKIとTURTLE ISLANDのベーシストGOTOUは部活の大会をサボってこれを観に行き大変衝撃を受けたという。第2回目からは元MANIAC HIGH SENCEのメンバーなどと当時組んでいたYOSHIKIのバンドが出演することになったのが運の尽きで、それ以降SOGAから「お前がやれ」と言われ、中学生にもかかわらずYOSHIKIを中心に炎天下GIGが行われるようになっていった。といっても段取りを投げられただけで、実際はSOGAを中心にYOSHIKIやKOHSUKEと仲間らで近辺のハードコアやパンクバンド、ロックバンドなどブッキングしていた。


 基本的に無許可ライブのために、電源の確保から近隣住民などの苦情処理や警察の対応、機材の手配まで全て自分たちで行った。中学生のため運転免許もない二人は、遠くからアンプを転がして運んだり、電源の確保のために土建屋の先輩から発電機を借りるなどして対応していた。


 街の中心部である駅前の無許可ライブのために、毎回警察がやってきていたが、主催者が話をすると帰っていくという、半ば黙認状態のライブだった。


 筆者が経験した炎天下GIGでは、警察がきても主催者が対応して帰したあとに一人のパンクスが演奏中のバンドのボーカルにタックルしたために、30人ほどの観客に追い回されていた。


 その間も演奏は続いており、ここまで無法地帯になるライブを久々に観た。駅前でそこまでの大騒ぎになっているのにもかかわらず、警察が来ないのは不思議だったが、これぞパンクのライブだというものを久々に堪能した記憶がある。


 炎天下GIGにも移り変わりがあり、SOGA、YOSHIKIを中心にした初期と、YOSHIKIとKOHSUKEでORdERというパンクバンドをやり始めた二人の時期、その後YOSHIKIがORdERを脱退したあとは、KOHSUKEが中心となっていたようだ。


 そうして続いていくうちに、県外のバンドもツアーの日程に炎天下GIGを組み込むなど、毎回出演する県外のバンドなども出てくるようになり、全国のパンクスの間で炎天下GIGの知名度が上がっていった。


 こうしてライブハウスの無い豊田という街でもバンドの演奏ができる環境を作ったのが、炎天下GIGである。


■トヨロックや橋の下音楽祭、PUNK CARNIVAL開催へ


 そうしてできあがったライブハウスが無くてもライブができるというカルチャーの影響は、パンク以外の人間たちにもひろがっていった。


 YOSHIKIと同じ年代だがパンクではなく、インドなどの東南アジア諸国に行き、ヒッピーカルチャーなどに影響を受けた人間たちも、ライブハウスやクラブの無い豊田で何かを始めようと画策していた。


 その人間たちの中に、町づくりに取り組む会社で働いていたえーちゃんという人間がおり、会社内部から「フリーフェスをやりたい」と思い、立ち上げたのがトヨロックの始まりである。


 炎天下GIGを体験し、主催のYOSHIKIを知るえーちゃんは、YOSHIKIに「一緒にやろう。協力してくれないか?」と相談を持ちかける。


 企画やメイン業務はえーちゃんたちが行い、出演やデザインなどで協力していたYOSHIKIは、TURTLE ISLANDの作品を発売しているレーベル<microAction>の根木氏をトヨロック主催者たちに紹介すると、根木がメインステージのブッキングを担当するようになり、ほかのフェスとは違った独自の色を見せたフェスとなっていく。


 今では豊田市最大の音楽フェスであるトヨロックも、炎天下GIGがなかったら同じ形にはなっていなかったであろう。


 そしてYOSHIKIは、炎天下GIGから退いたあと、TURTLE ISLANDというバンドをはじめる。笛や和太鼓にウッドベースのほかにも、ギターやベースも入る大所帯のバンドで「和」を感じるオリジナリティの塊のようなサウンドは、日本全国はおろか世界中に影響を与え、瞬く間にその名を轟かせていった。


 そしてYOSHIKIは、豊田市郊外に「斑屋」というライブができる場所を作った。豊田市で初めてといってよいライブができる場所には多くのバンドが出演し、斑屋でイベントがあるときは、近隣の県や街からも大勢の人間がやって来ていた。


 斑屋という場所も、ライブがメインではあるのだが、今の橋の下世界音楽祭の雛形のような場所で、自由が満ち溢れた場所だった。


 その後斑屋は駅近くに場所を移す。狭くなったために人が入りきれず路上まで溢れ奇跡的に混沌営業を続けたが、最初から5年限定で取り壊し物件だったため、約束通り移転してからは5年で幕を閉じた。


 しかし現在「橋ノ下舎」というコミュニティスペースをYOSHIKIが作り、弾き語りなどの爆音サウンドではない音楽などを披露する場所も出来上がり、斑屋の精神は引き継がれている。


 そのYOSHIKIが、東日本大震災後に、地元で何かをしたいと思い立ち上げた「祭り」が橋の下世界音楽祭である。


 興行やイベントではなく「自分たちで何かできることは?」と考え始めた時に思い立ったのが「祭り」であり、何もない河川敷の橋の下に、全て手作りで一つの街ができあがる。そこでは音楽はもちろん、飲み屋や飯屋、鍛冶屋や服屋など様々な店のほかにキャンプサイトなどもあり、映画上映も行われる。


 前祭りを含め8日間行われる祭りが行われるこの規模の街を、一から手作りで作り上げることは驚愕に値する。一度でいいから是非体験してほしい空間である。そして「投げ銭」という方式で観客からカンパを募っているフリーライブであるところも大きなポイントだ。電力も全てが太陽光発電で、片付けから終わったとの河原の草刈りまで行う素晴らしいフェスである。


 街というもののつくりの根本がそこにはあり、人間の営みがリアルに感じられる祭りは、ぜひ一度体験してもらいたい日本独特の音楽祭である。


 この祭りの最後は盆踊りで締めくくられるのだが、現在その盆踊りのみが夏場に豊田市駅前で行われるなど、様々な派生効果をも生んでいる祭りである。この祭りの主催も炎天下GIGに初期から関わってきたYOSHIKIであるというところに、脈々とつながる魂を感じざるを得ない。


 その炎天下GIGにおいて初めて「パンク」や「バンド」というものに触れ、衝撃を受けたのがTOYOTA PUNK CARNIVAL主催であるSYSTEM FUCKERのYUTAである。


 炎天下GIGは無許可のために問題が多く、開催ができないことが続いていた時期に、YUTAがKOHSUKEに「何で炎天下やらんの?やろうよ」としつこく言い続けていた。するとKOHSUKEは「そんなにやりたきゃお前がやれ」と、YUTAに炎天下GIGを任せることになった。炎天下GIGで人生を変えられたYUTAは「俺が炎天下やっていいの?」と驚きつつも、自ら行動を起こし炎天下GIGを引き継いだのである。


 このあたりも、炎天下GIGのはじめに引き継がれた模様と酷似していて、豊田という街の人間の繋がりが見えるようで非常に面白い。


 PUNK CARNIVALを始めた当初は若手バンドのみで開催し、若者の可能性を無限に感じられるフェスだった。まだ無名の若手が、トヨタスタジアム外周部分の一部を使ったフェスを、今年で5回目を迎えるまで続けてきた。


 「豊田にはライブハウスやクラブができる気配すらない」と言うYUTAは「駅前で何か面白いことをやりたい」という炎天下GIG当初の面々の思いを未だに引き継ぎ持っており、日々街の呑み屋などに行っては空き物件情報などがないか探し回っているようである。


■豊田市の音楽シーンに深く根づいた精神


 各フェスティバルに共通している精神は、駅前で中学生が中心となって行われていた炎天下GIGから変わらない。その精神が今でも豊田の音楽シーンに深く根づいているからこそ、現在上記3つの大きなフェスが行われているのではないだろうか。


 愛知県豊田市という場所も、広島や東京、新潟や仙台あたりからも当日出発で来られるような、全国から集まり安い距離感の場所であり、大都市である名古屋ではできない規模のフリーフェスができる土壌もある。


 炎天下GIGのほかにも、駅前ジャズフェスティバルなどのイベントも行われていたり、昔は有料ではあるが忌野清志郎などが出演した河川敷で行われたフェスなどの音楽イベントが頻繁に行われており、そういった街の文化となっている野外フェスの歴史が、豊田という街を音楽に対して寛大にさせているのかもしれない。


 実際、金髪、刺青でモヒカンの若者が、街で一番の大きなスタジアムの一部を借りてフリーフェスを行うことに対し許可を与えるほど寛大な精神がそこに見える。


 それにはもちろん、先駆者たちが行って来たことの恩恵は大きいだろう。しかし、この寛大さが豊田市の音楽を育てていると言っても過言ではない。


 そして先駆者たちが築き上げたものを若者たちが受け継ぎ、さらに良いものにしようとしている。


 「ライブハウスやクラブがない」からといって諦めるでもなく、近隣の大都市でやるのでもなく、地元にこだわり、全てがフリーフェスであるというカルチャーを生み出し、脈々と繋ぎ受け継がれている豊田市は、何かが巣食っているとしか思えないほど、不思議で魅力あふれた街であり、常に新しいものが生まれている。


 ここまでの街が、現在日本に存在していることは、音楽に携わる人間や、音楽好きな人間にとって奇跡的に幸せなことではないだろうか。こんなに素晴らしいことが集まってくる豊田市の音楽シーンは、日本の中でも稀有の存在として際立っている。今後も豊田市の音楽カルチャーは、決して目をそらすことのできないものであり続けていくはずだ。(ISHIYA)