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浅野忠信は俳優として進化し続ける 『淵に立つ』『沈黙』『幼な子われらに生まれ』の演技を読む

2017年08月30日 13:32  リアルサウンド

リアルサウンド

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 浅野忠信が、映画俳優としてトップを走っていることはまちがいない。本人もそれを自覚しているし、どんなフォームで走ろうか、作品ごとに探求しながら走り続けている。お前は本気でやっているか? 俺はやっているぞとつねにその姿そのもので問いかけてくる。怠けているわけにはいかないし、映画と自堕落な関係を結んで満足しているわけにもいかないのだ。「俺もやるから、お前もやってくれ」。浅野はつねにそう呼びかけてくる。


参考:重松清原作『幼な子われらに生まれ』予告編 浅野忠信が崩壊していく様子も


 浅野忠信は、不思議な男だ。たぶん誰もがそう思うだろう。変わっていないのに、進化している。そんなことがありえるだろうか? だが、あるのだ。謎である。たとえば、1990年公開の鎮西尚一監督『パンツの穴 キラキラ星みつけた!』までいっきにさかのぼってみよう。まだ高校生の浅野だが、おそるべきことに、今とまったく変わっていない。たしかに幼くは見えるだろうが、すでに〈ASANO〉の完成形である。


 浅野忠信という男──これを考えるには、ゆうに本1冊が必要である。ここでは、その序説として、すでに『岸辺の旅』(黒沢清、2015)という中期浅野の代表作をもち、現在は主演作『幼な子われらに生まれ』(三島有紀子、2017)が公開中の彼の仕事を、おもに近年の映画作品に言及しながら考えてみたい。


 ちなみに、「中期」浅野というとき、筆者はその開始点を2001年初頭に公開された『風花』においている。相米慎二の最後の作品であり、さらに、この2001年は『風花』に続いて、『EUREKA ユリイカ』(青山真治)、『回路』(黒沢清)というおそるべき二作がたて続けに公開された驚異の年にあたる。この二作に浅野は出演していないが、両監督の作品群における彼の重要さはいうまでもなく、21世紀の日本映画史のまぎれもない開始点に彼が立っていたことを強調しておきたい。


 『風花』に始まり、15年後の『岸辺の旅』でひとつの到達点を迎えた浅野はもちろんまだまだ走り続ける。走るといえば、文字通り彼の「走り」をひたすら観察できるのが『DEAD END RUN』(石井聰互、2003)で、ただがむしゃらに走るのではない、いかに走ることで被写体としての自分がもっとも鮮やかにカメラに捉えられるのかを探求しつくしたうえでの「走り」を私たちは見ることができる。走る姿だけで延々と観客を魅了するには、知的鍛錬が身体能力と同じほど必要になるのだ。


 昨年公開された『淵に立つ』(深田晃司、2016)では、そうした鍛錬の成果のひとつが「食べる」という行為となって画面に結実した。それは恐ろしい破壊力だった。映画は冒頭のシークエンスから陰鬱な家族の食卓を映し出し、夫(古舘寛治)は新聞を読みながらいやにリアルな咀嚼音を立てて朝食に斜めに向き合い、夕食では陰気な蛍光灯の下でやはりリアルな下品さで一汁三菜に長々と取り組む。こんなリアリズムにのっとった暗い家族の食事風景を延々と見せられるのはかなわない、とうんざりしたところへ浅野が闖入してくる。


 殺人罪の刑期を終えて出所してきた浅野が、異様な闖入者として他人の家族の食卓を破壊するのは三度目の食事シーンでのことだ。破壊といっても、あくまでその「食べ方」によってである。4人掛けのダイニングテーブルを固定ショットで縦にとらえた朝食の場面で、奥の席に座った浅野は白いシャツを着て姿勢正しく、食べ始めたかと思うとあっというまに凶暴にすべてを平らげ、見る者を震撼させる。味噌汁を二口で啜り、沢庵を一瞬で飲み込み、納豆を二口で流し込み、ご飯を三口で掻き込んで、即座に立ち上がる。啜る音はあくまで激しく、納豆は糸を引いているはずなのにねばねばしておらず、すべてが乾いたアクションである。


 この「食べる」演技の異様なハードボイルドが、彼の作品への貢献であり突破点となっていることに注目したい。公開中の『幼な子われらに生まれ』では、こうした突出した演技は全体の平板さの中で抑えられているようにみえるが、それでも彼がこれまでつちかった自身の美点と資質を、可能なかぎり作品に即して発揮しようと苦心した跡を読みとることはできる。こちらでは、家族でありながら異質なよそ者としての父を演じる浅野だが、悪い男としての彼の魅力は前妻(寺島しのぶ)との(過去の)ラブシーンで保持されているし、離れて暮らす実の娘と友人どうしのような信頼関係を結ぶ浅野はこれまでにないフレッシュな印象を与えてくれる。


 『沈黙-サイレンス-』(マーティン・スコセッシ、2017)で浅野がキチジローではなく通辞に起用されたのは、道化的な役割を担うキチジローよりも、一貫して冷徹な通辞の方が現在の彼の風格にふさわしいとみなされたからだろう(彼自身は最初キチジロー役を所望したという)。ここでの彼の寡黙さは、とくにハリウッド映画で日本俳優が陥りがちな饒舌な寡黙さ──無口なのだが内面には過剰さをひめたシリアスな演技──とはかけ離れたものだ。


 浅野忠信とは何者であるのか。考えていると、脳裏に浮かんでくるのはリチャード・ウィドマークという一人のアメリカ俳優の名だ。悪役の印象が強く、『拾った女』(サミュエル・フラー、1953)や『街の野獣』(ジュールス・ダッシン、1950)といったフィルム・ノワールの傑作群をはじめ、無数の作品でギャングやチンピラなど悪い男をタイトに演じ、同時に西部劇や刑事ものでも後年まであざやかなアクションをこなした。薄い唇と冷酷な瞳でいいがたい魅力を映画史に刻んだきわめてクールな男だ。穏やかな善人を演じることも難なくできるのだが、そうした場合も乾いたタフネスを手放すことなく晩年まで観客を魅了していた。


 リチャード・ウィドマークの名を思い出すと同時に、浅野の仕事について考える時によみがえるのは7年前に東劇のステージで見た浅野自身の忘れがたい姿だ。没後10年として相米慎二の特集が組まれた2011年末の東劇で、『風花』上映回のゲストとして登壇した浅野は、誰よりも敬愛する相米監督の映画を「よろしくお願いします」と、すでにトークも終えて立ち上がり、鳴りやまぬ客席の拍手にその声も掻き消されながら、何度も繰り返し私たちに向かって訴えていた。だから私たちも怠けているわけにはいかないのだし、滅入る状況の中でも探求の手を休めるわけにはいかないのである。(田村千穂)