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『打ち上げ花火~』岩井俊二×大根仁×シャフトの組み合わせは本当に噛み合っていないのか?

2017年08月27日 10:03  リアルサウンド

リアルサウンド

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■異色の組み合わせは噛み合っていたのか


 『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』がなにやら随分と評判が悪い。わかりやすい魅力のある作品では決してないだろうが、ここまで反発があるとは予想していなかった。世相に反して筆者は今作が大好きで、すでに3回観た。あと何回観に行くだろうか。観返す度に発見がある。鑑賞を重ねる毎に感動も増している。


参考:青春アニメ、なぜ地方の町ばかり舞台に? 『打ち上げ花火~』の独自性に迫る


 不評の原因はなんだろうかと、いろいろ聞いたり検索してみたりしているのだが、原作のTVドラマを知っている者は、オリジナルとの乖離部分に困惑し、大根監督ファンからは、らしくなさを指摘され、シャフトのファンも、『魔法少女まどか☆マギカ』の二番煎じではないか、そもそも意味がよくわからないなどなど、微妙な評価を受けている。


 要するにこの座組みが噛み合っていないと感じられているようだ。岩井俊二の清冽な描写と、大根監督のイヤらしい視線、スタイリッシュなシャフトの描写が、それぞれが拒絶反応を起こしてしまっているような、そんな印象だろうか。


 なぜこのような印象を持たれているのか、そして筆者の心の中では、なぜ拒絶反応を起こさずにむしろ全てが調和しているのか、ちょっと考えてみることにする。


 作品の理解は、文脈に依存する。例えば『シン・ゴジラ』が海外ではそれほど高い評価を得られず、日本国内では絶大な絶賛を受けたのは、「3.11後の日本」という文脈を肌で知っているかどうかに大きく依存している。文脈依存度の高低は作品ごとに異なるが、ほとんどどんな作品も全くなんの文脈に依存しないということはあり得ない。(あるかもしれないが、文脈を知っていた方が鑑賞時の楽しみは深まる)


 今作の異色の座組みが上手く噛み合っていないと感じられるのは、何か理解の鍵となる文脈が欠けていて、筆者はたまたま気づいたということかもしれない。では筆者は何に気づいたのか、開陳してみることにする。映画についての語りに唯一の解は存在しないが、鑑賞の一例になれば幸いだ。


■『if もしも』への岩井俊二の違和感


 オリジナルの『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』は、『if もしも』という90年代のTVドラマシリーズのエピソードとして生まれた。『世にも奇妙な物語』の後番組として始まり、スタッフもほぼ同じだったこのシリーズは、ドラマに一箇所、選択の分岐点を作り、顛末Aと顛末Bを両方見せるという、ユニークなコンセプトの作品だった。主人公がある時点で選択を迫られ、Aのルートの場合の顛末を見せた後、選択肢に戻りBの物語を見せる。エピソードによってハッピーエンドとバッドエンドに別れる場合もあれば、どちらをとってもバッドエンドの場合もあったり、逆にどちらもハッピーエンドという場合もあった。(両方ハッピーエンドのエピソードでは、案内役のタモリがふてくされるように後ろを向いてしまうカットが妙に印象的でよく憶えている)


 人生はあらゆる瞬間に選択を求められ、それはやり直すことのできない不可逆なものだが、「もしも」別の選択した時、自分はどうなっていたのか、視聴者はそんな別の可能性に思いをはせて人生の奥深さを味わうような、そんなドラマシリーズだった。


 本作のオリジナルとなる岩井俊二監督の作品は、このドラマシリーズから生まれたものだが、元々は同氏が学生時代に思いついた企画をドラマのコンセプトに沿うように手直ししたものだ。(小説『少年たちは花火を横から見たかった』後書き参照)


 このコンセプトに合わせるために、多くの手を加えたようで、実際に岩井俊二がやりたかったことは別にあったようだ。そもそも同氏はこのコンセプトに違和感があったらしい。


この仕事を引き受けた時、このテーマにいささか違和感があったことを憶えてる。僕らは物語を作る時、常にこの起こりうる可能性を模索し、無数の選択肢の中からたった一つの道を選んで紡いでゆくのである。いうなればこの番組企画は、書き手にとっては物語を完成させる前に筆を置くに等しい行為なのである。物語を完成させない。最後のしかも重要な分岐点における主人公の選択とその顛末を両方とも描き、両方とも残したままにするのである。


 『if もしも』のシリーズは、分岐が発生するのは基本的に主人公の選択によってであるが、岩井氏が手がけた『打ち上げ花火~』で分岐が発生するのは、主人公ではなくヒロインのなずなの選択だった。しかも偶然のアクシデント(典道の足の怪我)によって選択が分岐する。構成が群像劇的になっているのもユニークな点だ。


 元々の企画のタイトル、そして小説版のタイトルは『少年たちは花火を横から見たかった』である。岩井氏は「if」が発生しなくてもこの物語を描けるのではないかとして,小説版では一つの物語に再構成している。


 今回はドラマシリーズの1エピソードではなく、単独の映画として公開される。オリジナル作品も完成度の高さと評判によって単独作品として劇場公開された実績があるが、ドラマ版を知らない観客には、どうして時間が戻るのかわからないという声もあったそうだ。オリジナルが放送されたのが1994年、すでに20年以上前のことなので、物語が巻き戻ることに何らかの理由付けが必要とされ、岩井氏の違和感を解消するなら、一本の物語として再構成する必要がある。


 そこで脚本担当の大根仁氏が導入したのが、時間を巻き戻す「不思議な玉」だった。その玉で主人公の典道が何度も時間をやり直すという「1本の物語」として再構成したのが今回のアニメ版だ。オリジナル作品の持つ、別の選択肢を見せるというコンセプトからも外れず、岩井氏の違和感も払拭する上手い落とし所だ。


 岩井氏の書いた小説版の最後の方に、なずなのこんなセリフがある。


「願い事言ったら、叶うかなと思ったけど,もったいないから使わなかったよ」


 小説版では、なずなが海岸で不思議な真珠の玉を拾っている。これが今回のアニメ版では重要な意味を持つ小道具となった。岩井氏の小説ではその玉を使わなかった世界線、今回のアニメ映画版では、使われた世界線という風に解釈可能かもしれない。


■キーワードは「銀河鉄道の夜」


 ところで岩井氏はこの作品で『銀河鉄道の夜』のような物語をやりたかったと語っている。撮影当時を振り返ったドキュメンタリー『少年たちは花火を横から見たかった』でも岩井氏自身が言及しているし、今作のプレスシートの鼎談でも大根氏によって語られている。


 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、ジョバンニという少年が突如として、銀河鉄道行きの列車に出くわし、それに乗って友人カムパネルラと旅をする物語である。不思議な旅から覚めると、ジョバンニはカムパネルラが川で溺れた友人を助けるために行方不明になってしまっていることを知る。銀河ステーション行きの列車は死の世界への旅路であるという解釈が有力だが、生と死の世界を行き来した少年の物語だ。とても奇想天外で美しい描写で埋め尽くされ、まだ見ぬ死の世界への一種の憧憬のようなものも感じられる作品で、今も多くの愛読者がおり、研究もされている。


 個人的な『打ち上げ花火~』オリジナルの最大の謎は、駆け落ちしようとして典道と駅にやってきたなずなが、突如翻意して帰ろうというところだ。「切符を買わなきゃ」と立ち上がったなずなが画面外にフレームアウトして、帰ってきたと思ったら、別人のような印象で「帰ろう」と言う。なぜなずなは電車に乗らなかったのだろうか。『銀河鉄道の夜』といえば電車だろうに。


 本作では、岩井版ではなずなと典道が乗らなかった電車での旅路が描かれる。そしてそれは幻想の中の旅路として描かれる。本作では物語の分岐点は複数あるが、電車に乗るか乗らないかという、原作にあり得たかもしれない分岐点が登場する。そして電車に乗るという選択が始まるやいなや、アニメーションのタッチががらりと変わり、明確に幻想の旅路のような雰囲気が現出する。


 ここからの展開はオリジナル作品を知っている観客からするとまるで別作品のように見えたのではないだろうか。しかし、筆者は『銀河鉄道の夜』が狙いにあったことを知っていたおかげで、この展開がむしろオリジナル作品の意をさらに発展させたものとして観ることができた。


 この『銀河鉄道の夜』という文脈を知っているか、そうでないかで、もしかしたら後半の展開の印象がまるで異なるかもしれない。実写版と今回のアニメ版での最大の違いは後半の展開だと思うが、これを繋げる文脈がこれだったのだ。


 時間が巻き戻る不思議な「もしも玉」はなずなが父が死んだ浜辺で見つけたものだ。典道が玉を使い、時間が巻き戻る度、幻想の度合いが濃くなっていくあたり、本当に時間が戻っているのではなく、典道の願いの世界が展開しているということなのだろうが、死に関連付けられた玉によって幻想の世界が展開するあたりも『銀河鉄道の夜』の影響を感じさせる。


 投げると幻想の世界、典道が願った世界につれていくこの玉は、死と密接な関係があることが示唆されている。列車と死との関連性を見いだせる、本作オリジナルの展開は、岩井監督が本来やりたかった銀河鉄道の夜の影響がはっきりと見て取れる場面だ。


 そしてこの幻想パートからシャフトのアニメーションの持ち味が発揮されてくる。片田舎の瑞々しい青春劇なら、もしかしたら京都アニメーションやP.A.WORKSの方が得手かもしれないが、時と空間を行き来する不思議な空間ならシャフトが指名されるのもうなずける。


 大根仁氏の脚本は、実写版とアニメ版のブリッジとして、岩井監督のやりたかった根幹である『銀河鉄道の夜』のモチーフを引っ張り出し、実写ではなくアニメーションで再映像化する意義もそこに見出した。原作者の意を発展させ、アニメの魅力も発揮させる見事な構成だと筆者は見ている。


 そしてオリジナルでは小学生だった登場人物を中学生に変更していることで、性的視線が増している。中学1年生の夏休み、まだ半分小学生気分の少年たちだが、中学生らしい性的な気分も高まってきているというような状況で、ここに大根氏の個性が活きてきている。


 さらに、最初はなずなが連れ去られても見ていることしかできなかった主人公が、やり直しを重ねる中で主体的に選択し、なずなを守ろうと自ら選択できるようになっていく展開もとても良い。たった1日のほんの数時間をやり直すことで(たとえそれが幻想であったとしても)、典道は確実に成長している。少年の成長を描く冒険譚としても成立しており、『モテキ』や『バクマン。』などでも男の成長ストーリーを丹念に描いた大根氏らしさが発揮されているポイントだろう。


 『銀河鉄道の夜』というキーワードで少年の冒険譚という見方を筆者はしてみた。確かにわかりやすいエンタメでは決してない作品かもしれないが、人生に無数の選択肢があるのと同様、これ以外にも多くの解釈があるに違いない。一見バラバラな個性を持った才能たちが、ひとつのキーワードでつないでみると、夜空に浮かぶ星座のように、ひとつの輪郭を持って浮かび上がってくることがある。この文脈が本作を少しでも楽しむヒントになれば嬉しい。(杉本穂高)