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冤罪を訴え続ける死刑囚の妻「最後まで付き合うしかない」…逮捕後、激動の29年語る

2017年08月22日 10:43  弁護士ドットコム

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現在、全国の刑事施設に収容されている120人余りの死刑囚の中には、冤罪を訴えている者も少なくない。ここで紹介する高橋和利死刑囚(83)もその1人だ。


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1988年に横浜市鶴見区で金融業や不動産業を営む男性とその妻が殺害された「鶴見事件」で、高橋死刑囚は強盗殺人の罪に問われ、2006年に死刑が確定した。しかし裁判では、殺人について一貫して無実を主張しており、死刑確定後も裁判のやり直し(再審)を求め続けている。


そんな高橋死刑囚の妻・京子さん(83)が取材に応じ、夫がある日突然逮捕されてから29年余りの激動の日々を振り返った。(ルポライター・片岡健)


●警察は自分のことまで疑っていた

高橋死刑囚は事件前、横浜市戸塚区で小さな電気工事会社を営んでいた。会社の経営は決して順調ではなかったが、京子さんによると、高橋死刑囚は「働くことを苦にせず、あまり自分のために金を使わない人」だったという。夫婦の間に子どもはいなかったが、事情があって引き取った京子さんのおい2人を実子のように育て、4人で平穏に暮らしていた。


しかし1988年7月1日、高橋死刑囚が強盗殺人の容疑で逮捕され、家族の生活は一気に暗転した。京子さんは夫が逮捕されたと知った時、どんな思いを抱いたかを記憶していない。警察が自分のことまで疑ってきたため、わけがわからなくなってしまったのだ。


「お前も手伝っただろう」「1人ではできない犯行なんだ」「どうやって殺した?」


夫が逮捕された日から20日余り、京子さんも連日、朝から晩まで刑事から共犯者扱いの取り調べをうけた。「お前のことはずっと見ているからな」。取り調べの最後の日、刑事に投げつけられた言葉は今も強烈に印象に残っているという。


「あの取り調べのせいで6年くらいは頭がおかしいままの状態でした」と京子さん。のちに夫の裁判では、弁護側が現場や遺体の状況などを根拠に「1人では無理な犯行」と主張した。この時、「だから警察は自分を共犯者にしたがったのか」と思ったが、当初は自分まで疑われた理由を考える余裕はなかったという。


●夫のことばかり心配していられなかった

裁判では冤罪を訴えた高橋死刑囚だが、逮捕当初は容疑を全面的に認めていた。その理由について、京子さんは高橋死刑囚から「刑事に『本当のことは裁判で話せばいい』と言われたからだ」と説明されたが、それはずっと後のことだ。当初は面会中に事件に関する話は許されなかったし、手紙でも事件に関することを書くと、その部分は黒く塗りつぶされていたためだ。


それでも、京子さんは当初から夫は殺人などしていないと思っていたという。


「高橋は、窓から入ってきたカマキリの子供が会社の事務机の上にいるのを見て、追い払うことができずに困っているような人でした。このような事件を起こすとはとても思えなかったのです。じきに何かの間違いだとわかり、帰ってこられるものだとばかり思っていました」


横浜地裁であった第一審の公判も毎回傍聴に通ったが、有罪の証拠は無いように思えた。だから判決は「無罪」になると思い込んでいた。そのぶん死刑判決が出た時はショックが大きかったという。


もっとも、京子さんは「正直、高橋のことばかり心配していられなかったんです」とも語る。


事件前、京子さんは電話番など高橋死刑囚の会社の手伝いをしていたが、高橋死刑囚の逮捕後は生活費を稼ぐためにパン工場で働いたり、清掃の仕事をしたりした。その合間におい2人の生活の面倒をみたり、高橋死刑囚の面会に通って洗濯物などの世話もしなければならなかった。日々の生活を乗り切るだけで精一杯だったのだ。


そんな生活の中、ありがたかったのは周囲の人たちの気づかいだ。家の前で知らない人が「ここだ」と言っていることなどはあったが、事件前から知り合いだった人たちの多くは事件後も変わらず、普通に接してくれていた。「おかげで肩身の狭い思いはせずに済みました」。今も感謝しているという。


●「お供する運命だったんでしょう」

じきに帰ってくると思っていた夫は帰ってこないまま、今年7月で29年の歳月が過ぎた。この間、夫婦の関係は常に良好だったわけではない。形式的にでも離婚し、苗字を変えたほうががいいのではないかと考えたこともあったという。


しかし結局、そうはせず、死刑囚となった夫の帰りを妻として待ち続けてきた。その理由を尋ねると、少し考え、こう話した。


「高橋は生活が苦しい中、おいっ子2人の春休みと夏休みにはみんなを旅行に連れて行ってくれていましたし、私の母が(私の)弟のお嫁さんとそりが合わずに家出してきた時も嫌な顔一つせず、一年くらい家に置いてくれました。なんだかんだで面倒をみてくれましたから」


上のおいが結婚した際、報告のために面会に訪ねたところ、高橋死刑囚は「こんな状況で何もしてやれなくて申し訳ない」と泣いていたと聞かされた。そんな諸々のことを思い返すと、離婚という選択には至らなかったという。


高橋死刑囚の再審については、「今さら認められるのは難しいでしょう」というのが正直な思いだ。一方で「最近も再審が認められた人がいたし、ひょっとしたら・・・」という思いもないわけではないという。いずれにせよ、ここまできたら最後まで夫に付き合うしかないだろうと思っている。


最後に、この29年を振り返ってどう思うかと聞くと、達観したようにこう言った。


「何事も縁ですから。高橋とはお供する運命だったんでしょう」




【鶴見事件とは】1988年6月、横浜市鶴見区で金融業と不動産業を営む男性(当時65)とその妻(同60)が事務所で殺害され、1200万円を奪われたとされる事件。取り調べで容疑を認めた高橋死刑囚は公判で自白を撤回し、「融資を受けるために被害者の事務所を訪ねたら、2人が殺害されていた。その場にあったビニール袋の札束に目がくらみ、持ち逃げしてしまった」と金を盗んだことを認めつつ、殺人は無実だと訴えた。しかし裁判では、捜査段階の自白が信用され、2006年に死刑が確定。高橋死刑囚はその後、横浜地裁に再審を請求し、2012年に棄却されたが、現在は東京高裁に即時抗告している。



【プロフィール】


片岡健(かたおか・けん)


ルポライター。1971年生まれ。大学卒業後、フリーのライターに。全国各地で新旧様々な事件を取材している。編著に「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)。広島市在住。


(弁護士ドットコムニュース)