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“ユニバース”全盛時代となったハリウッド映画の行き先は? 荻野洋一の『ザ・マミー』評

2017年08月03日 10:03  リアルサウンド

リアルサウンド

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 よせばいいのに高校生のキャンプはたいてい、一組のカップルだけで乳繰り合うために夜の森へ消えていく。よせばいいのにコソ泥グループは、いかにも呪われているようにしか見えない館にわざわざ押し入ったりする。恐怖映画の最初の被害者たちは、私たち観客の「よせばいいのに」というつぶやきをまったく聞き入れない。スクリーンの向こう側の人間どもは、私たちよりもつねに愚かで、危険察知能力が鈍い。彼ら最初の被害者たちが怪物にあえなく惨殺されてしまうのは、まさに私たちの忠告を聞き入れなかった罰なのである。


参考:トム・クルーズら出演者と監督が注目ポイント紹介 『ザ・マミー/呪われた砂漠の王女』特別映像


 トム・クルーズ主演の恐怖映画『ザ・マミー/呪われた砂漠の王女』もまた、自覚を欠いたトムたちがついうっかりと、開けてはいけない呪いの古墳を白日の下に晒してしまう。このあと上映時間2時間にわたってトムたちは、死神の怖ろしい呪いに悩まされ、カラスの大群、ネズミの大群に襲われ、まるでアベンジャーズかX‐MENの一員のごとくスーパーパワーを持ってしまった古代エジプト王女のミイラに追いかけ回される。これも私たち観客の「よせばいいのに」という忠告を聞かなかった罰である。英米を中心とするPKOや国連軍はこの半世紀のあいだ、中東地域で軍事介入をくり返しているが、解決しないばかりか、むしろ事態をより混乱させ悪化させている。この中東という地域は人類文明発祥の地である。古代エジプト、古代メソポタミア。イラクのチグリス川、ユーフラテス川の流域で人類文明が産声をあげたなら、人類文明が終わるのも同じメソポタミアであったとしても、人類史の円環がきれいに閉じられるようにも思える。中東での混乱が人類終焉の合図だとしても、それは運命なのではないか、とつい考えたくもなるものだ。


 本作『ザ・マミー』は、そうした中東への罪悪感、終末への不安をたくみに利用して、恐怖空間を捏造して見せた。『ゴーストバスターズ』のようにニューヨークのど真ん中で数え切れないほどの幽霊たちが跳梁跋扈するのも映画として興奮させられる光景だが、やはり恐怖の大本は文明発祥の地、中東であるべきだ。中東の神々を怒らせたら、中東の怪物たちを怒らせたら怖ろしい。永遠に呪われる。だから中東的恐怖は、怪物や魔物を退治すればよいというものではない。彼らはホオジロザメではない。彼らをなんとかして慰撫し、彼らの怒りと怨みを収めなければならない。しかし、それは人類同士の戦争でも同じことであるはずである、元来は。徹底的に敵をやっつけただけでは、平和は訪れない。復讐心の連鎖を収めていかねばならない。でもなかなかできない。『ザ・マミー』の恐怖はその無力感につながっている。


 本作はユニバーサル社があらたにローンチさせる「ダーク・ユニバース」というプロジェクトの記念すべき第1作として製作された。「ダーク・ユニバース」は単なるシリーズではなく、マーベル社の「シネマティック・ユニバース(アベンジャーズ)」や「X-MEN」、DCの「エクステンディド・ユニバース(ジャスティス・リーグ)」と対抗するプラットフォームとして構想されており、今後「ダーク・ユニバース」では今回のミイラ再生に続いて、フランケンシュタイン、透明人間、狼男、大アマゾンの半魚人、魔人ドラキュラなどを順次復活させて新作を発表、壮大な恐怖環境を構築していくそうである。天下の『スター・ウォーズ』でさえスピンオフと正伝の連打で環境を拡大・複線化させ、ユニバース路線に色目を使い始めている現在、2010年代ハリウッドは、まさにユニバース至上主義の時代になってしまった。いつもながらのユニバーサル社のブランドロゴ(回転する地球の周囲に「UNIVERSAL」と書かれた巨大な帯がかかっていく)が終わると、今回はおもむろにそのまま地球が反転、太陽光線の当たっていない夜の片面が正面となり、つまりダークサイドとなり、「ダーク・ユニバース」という第2ロゴが現れる。この悪戯めいた恐怖演出に興奮を感じない映画ファンは皆無だろう。


 ハリウッド、フロリダ、大阪USJ、シンガポールと整備されてきたユニバーサル・パーク&リゾーツは今後、モスクワ、北京と新興国の首都に建設されていく予定で、『ジュラシック・パーク』『ジョーズ』といった自社のイメージをさらに拡大していく必要がある。その課題を解決するリソースとして、まさにユニバーサル社伝統の、それこそ創業者カール・レムリの一族経営時代に生み出された怪物たち──ミイラ再生に続いて、フランケンシュタイン、透明人間、狼男、大アマゾンの半魚人、魔人ドラキュラetc.──が復活するとはじつに興味深い。それにハリウッド人という人種は、スターにせよ裏方スタッフにせよ、自分たちの先達にオマージュを捧げるのが大好きだ。オマージュというものはなにも、ヌーヴェルヴァーグなどフランスの批評家の専売特許ではない。難解なことが大嫌いな西海岸の人々も先達へのオマージュには目がない。今さら『ザ・マミー』でもないと思われる方もいらっしゃるかもしれないが、こんな企画にトム・クルーズもラッセル・クロウも一目散に食いついてしまう。


 『ザ・マミー』(原題は The Mummy)は、1932年にユニバーサル社がボリス・カーロフを主演に、そして、フリッツ・ラング監督やフリードリヒ・W・ムルナウ監督の撮影監督だったチェコ系ユダヤ人カール・フロイントを監督に抜擢して製作した『ミイラ再生』(こちらの原題も The Mummy)のリメイクである。その後『ミイラ再生』は何度も何度もリメイクされ、大ヒット作『ハムナプトラ』(1999)もそのひとつである(この作品の原題も The Mummy)。上記のごとく数多くあるユニバーサルのモンスター映画にあって、『ミイラ再生』を栄えある「ダーク・ユニバース」環境の嚆矢としたのは、やはり冒頭で述べた「よせばいいのに」という観客との心の対話が最も強いこと(現代風に言うとインタラクティヴな恐怖)、そしてその後悔の念、罪悪感が中東への侮辱から始まるという対テロ戦争の絶望とダイレクトにつながっているためだろう。


 最後にひとつだけ問題を述べたい。けっこう大事な問題なのだが、それはつまり何かというと、この第1作『ザ・マミー』の出来が思ったほど芳しいものではないということだ。悪くはないが、もったいない点がある。再生するミイラをボリス・カーロフのような厳つい僧侶から、意志と発言力に富む女性(ファラオの王女)に変更したのは、賢明なアイデアではあるが、王女は理想の伴侶をもとめボリス・カーロフのように手当たり次第に殺人を繰り返すのというよりも、「この人に決めた」とトム様への一点突破に懸けている。どんなに凶暴でも、貞節さの限界を破れない。アルジェリア人女優ソフィア・ブテラは素晴らしい女優で、『キングスマン』での『殺し屋1』の大森南朋ばりのナイフ型義足も鮮烈だったが、今回は3700年ぶりに甦った皇族の役なので、怪物であると同時に、高貴な動き、ゆっくりとした歩き方で魅せてくれる。ソフィア・ブテラは述べる。「私が考えた、こういう身分の人たちの共通点は、必要以上に速く動くことはしないということ。声を張り上げることもないし、命令も浅はかではなく熟慮されたもの。ボリス(・カーロフ)の演技や、男性としての振る舞いはとても参考になると思ったわ」。彼女はボリス・カーロフに敬意を表明している。しかし、それでも彼女の野望と、トム・クルーズへの貞女ぶりがどうも引き合わない。


 トムの相手役であるヒロインの考古学者ジェニー(アナベル・ウォーリス)も弱い。いろいろと怒ったりあせったり、たくらんだり走り回ったりするわりには、最終的には硬直したままトムの救出を待つだけの存在になり果てる。そして、もうひとりの主人公となるべきジキル博士(ラッセル・クロウ)の存在はそれ以上に曖昧で、途中、見せ場を作っておかねばという義務感に駆られたように怪物ハイド氏に変貌し、トムと軽く対決してみせたりもするのだが、中途半端の感は拭えない。まるでスタジオでのリハーサルを見ているようだった。


 ちょっと待て。これからもっと面白くなるから。ユニバーサル社の内なる声が聞こえてくるようだ。研究所に捕獲されたミイラ王女とトム・クルーズが対峙して、古代エジプト語で言い争っているところにジェニーが介入しようと前に出かかると、ラッセル・クロウがこっそりと制止するというショットがある。もう少し様子を見てみよう。私たちは今まさに対峙する恐怖のありかを、謎の本質を、もっと知らなければならない。ようするに『ザ・マミー』一作でジャッジすることなかれ。ラッセル・クロウは、女性考古学者を制止する身振りによって、そう言外に語っているのだ。どうやらラッセル・クロウが演じていくジキル博士(薬が切れると怪物ハイド氏に変貌してしまう)は、「ダーク・ユニバース」全体の鍵となる登場人物となる予定だそうである。ジキル&ハイド、明暗両面に引き裂かれたこの人物は、おそらく「アベンジャーズ」環境にとってのロバート・ダウニーJr.(アイアンマン=トム・スターク)のような存在として君臨していくのだろう。


 悪くはないが、やや消化不良の感もある今作を、ラッセル・クロウに免じて許容してみよう。たぶんこれからもっと楽しませてくれるだろうから。そしてそれを許容できぬようなら、このユニバース全盛時代に突入したハリウッド映画とは、まともに付き合ってはいけなくなっているのだ。(荻野洋一)