2017年08月01日 13:03 弁護士ドットコム
今から20年前の1997年8月1日、ひとりの男の死刑が執行された。名前は永山則夫(享年48歳)。1968年、わずか26日間で計4人を射殺した「連続ピストル射殺事件」の犯人だ。
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事件当時19歳だった永山少年は満足に学校に通ったこともなかったが、猛勉強の末、『無知の涙』(1971年)などで知られる獄中作家としても活動。被害者遺族に印税を届けた(4人のうち2人の遺族は受け取らなかった)。
そんな永山がずっと傍らに置いていたものがある。それは自らの悲惨な生い立ちと犯行に至る心理過程を綴った「精神鑑定書」だ。
意外なことに、永山の裁判は、常に死刑判決だったわけではない。東京高裁の二審では無期懲役が言い渡されている。その要因になったのが、この精神鑑定書だという。
二審判決は、犯行原因の一端は福祉政策の貧困にあると指摘。また、永山の精神的未熟さは18歳未満の少年と同一視できると認定し、少年法の理念などに基づいて、死刑を回避した。永山に生きて償うことを命じたのだ。
判決は最高裁で破棄されるが、その理念は死刑の基準として、被害者の数のほか、動機や犯行後の情状などの要素を挙げる「永山基準」に残っているといわれる。
この鑑定書を作成したのは、非行少年について研究していた精神科医の石川義博氏。
鑑定は、1973年11月28日から翌年8月31日まで、278日間という異例の長さで行われた。徹底的に話を聞き、辻褄の合わない部分はとことん突き詰めたという。
その一方で、裏付けのため、青森まで向かい親族に話を聞くなど、現地調査も行なった。犯行に至る経緯を明らかにすることは、「第二の永山」を生まないために欠かせない作業だった。完成した「石川鑑定」は、2段組182ページと、史上まれに見る大部となった。
当時、マスコミ報道や『無知の涙』で、永山家の貧困ぶりはよく知られていた。しかし、石川鑑定は、その程度が尋常ではなかったことを明らかにした。
父母のネグレクト(育児放棄)、母親代わりだった長女の精神疾患、極寒の網走で生ゴミを漁るようにして生き延びた4歳の冬、青森の学校でのいじめ、兄からの暴力などなど…。数え上げたらきりのない不幸の数々。
「彼はいろんなPTSD(心的外傷後ストレス障害)が重なって、知・情(知性と感情)ともに発達できなかった」と石川氏。
中学卒業後の永山は上京し、就職する。しかし、中卒であることをからかわれ、劣等感と孤独感にさいなまれた末に退職。転職と自殺未遂を繰り返し、ついにはパニックを起こして、人を殺してしまった。
以降、彼は自暴自棄となり、死に場所を探して各地を放浪。死に切れず、むしろ追われているという強迫観念から殺人を重ねる。中には、自身を邪険に扱った兄に迷惑をかけてやろうという身勝手な動機で犯した殺人もあった(函館事件)。
鑑定書は、永山への聞き取りから、その行動や心の動きを詳細に記録している。ところが、出来上がった鑑定書を見た永山は、「別の人の鑑定書のようだ」と否定的な意見を述べたという。
石川氏は、このとき「精神鑑定の限界を思い知った」という。以後、犯罪心理学からは離れ、臨床医として活動することになる。
しかし、結局、永山は石川鑑定を手離さなかった。おそらくは繰り返し目を通し、自分の過去や罪と少しずつ向き合っていったのだろう。
控訴審から永山の弁護団に加わった大谷恭子弁護士は次のように語る。
「1979年に弁護人についたとき、彼は私に石川鑑定を出して、『ここに全部事実が書いてあるから。これで控訴趣意書を書いてくれ。ここに俺の歴史が入っている』と言った。
彼はこれを見て、(代表作の1つである)『木橋』(1984)を書き、犯罪に至るまでの経緯を小説に書き留めたいという意欲を持っていたんだろうと思います」
しかし、当の石川氏がそのことを知ったのは、永山の死後。歴史的な鑑定書の影には、悲しいすれ違いもあったようだ。
ジャーナリストの堀川惠子さんは、永山の遺品から見つけた鑑定書を石川氏に届けたときのことを次のように記している。
「『ああ、彼は書いています、ここにも、ああ、線が引いてあるわ。これは彼の手垢がついているんだね。こんなところにも、線がありますよ。このことは僕、全然、知らなかったですよ…』
鑑定書を見つめる両の目は、もう涙を堪えられなくなっていた」(『永山則夫 封印された鑑定記録』)
以上は、7月28日に都内の教会であった、石川氏と大谷弁護士の対談から。
永山は死刑執行の直前、「(印税を)特にペルーの貧しい子どもたちのために使ってほしい」という遺言を残した。自分のような犯罪者を二度と出さないためには、貧困を撲滅する必要があると考えたからだ。
現在、永山の遺志は、大谷弁護士が代表を務める「永山子ども基金」を中心として、果たされている。同基金は、これまでに印税やイベントの収益など、2000万円ほどをペルーの働く子どもたちに送っているそうだ。今回の公演も、同基金が毎年開催しているチャリティイベントの一幕。
(弁護士ドットコムニュース)