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荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第6回:はっぴいえんど、闘争から辿るヒップホップ史

2017年07月31日 22:42  リアルサウンド

リアルサウンド

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 ヒップホップにとって重要な要素であるダンスとスタイル(ファッション)はどのように位置づけられてきたか?


(関連:荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第5回:“踊り場”がダンス・ミュージックに与えた影響


 例えば、“日本語ロック論争”。日本における最初のヒップホップ専門のレーベル<BPM>を設立し、自らもロック・ミュージシャンとしてではなく、プレジデントBPMというオルター・エゴでラッパーとして活動した近田春夫によると、日本のロックの歴史を振り返ったときに必ず触れなければならない日本語ロック論争について、実際は“ダンス・ミュージックかそうでないか”をめぐっての対立だったという。


 1970年、日本のロックの歴史における伝説的な、はっぴいえんどの1stアルバムのリリースの数カ月前、メンバーの1人、松本隆は、1700字のテキスト「現代のロックは放浪よりうまれる」を雑誌『ミュージック・ライフ』8月号に寄稿した。


 彼は、映画『イージーライダー』や『真夜中のカーボーイ』に巨大に映し出された“ぼくたちと同時代を生きる、アメリカの若者たちの開拓者魂”について書き出したのち、当時のアメリカでのカントリー・ソングの復活、ブルースの流行、ロックン・ロールの再登場を、以下のように定義した。


「なるほど、商品社会の苦吟に規定されているにしても、一方では、その瓦礫の中を吹き抜ける砂塵のように、奇妙に新鮮な、アメリカ自身の胎内回帰」


 そして次に、おそらくこのテキストでもっとも有名な部分が姿を現わしてくる。


「アメリカの、このランボーまがいの倦怠と逃走を、これ以上確認する必要があるだろうか? 僕はあると思う。ロックが、同時代的な息吹であろうとする限りは、アメリカの没落と日本の堕落が、ぼくたちの出発点であるとともに、倒錯した終着点、はっぴい=えんどである限りは」


 はっぴいえんど、歴史を転換させたという1stアルバムのリリース直前、これは松本隆によるステートメントに他ならない。


 “happy ending”ーー松本のテキストで名前を並べられているようなアメリカン・ニューシネマ群の到来のとき、悪漢以外の登場人物がみんな幸せになってプロットが終わることはもう稀であった。それをふまえながら、あえて日本語のひらがなで表すこと。それはいくつかある放浪のうち、彼が必要としたのは「安物絵葉書の挿画のような、旅のもつ俗悪な枠組み」を「活人画として、土地の精霊の中に魔術的に喚起」する「消滅した幻想の郷土(=東京)を発見する仮装した時代錯誤」だと導かれる。


 こうして松本が「細野君と共に、ロックという放浪を再確認しようと考えた」とき、「富士山や松原や九十九島が過去に逆流するのは、ぼくにとってのそれらがあくまで銭湯の壁に原色で描かれた大きな絵」で、彼はもう見えにくくなった戦後のブラックマーケットの姿を「新宿のゴールデン街や、品川の横町」に見ようとし、「時の螺旋階段を駆け上り、袋小路の影絵芝居の中に、裏ぶれた駄菓子屋を見い出す時、ぼくらの幻の都市への進撃を開始」するという。


 1968年、バーンズというバンドで、のちのはっぴいえんどの細野晴臣と松本隆はThem の「Gloria」、Sam & Dave「Hold On, I’m Coming」といった曲をディスコ/クラブでプレイしていた。また、小坂忠や柳田ヒロなどによるApryl Foolは、The DoorsやCreamの曲などをパニック(新宿)、スピード(六本木)といったディスコ/クラブでプレイしていた。細野によると、Apryl Foolは「ダンス・バンド(※註1)」で、日本語と英語を使い、激しいセッション的楽器のやりあいをする時、シャウトは英語で発声されていた。


 “幻の都市への進撃”は、細野がBuffalo Springfieldからローラ・ニーロまでに触発され、ダンス・ミュージックではない音楽を志向しはじめた当時、遠藤賢司などのバックをつとめ、日本語の可能性を感じたことをきっかけにはじまったとされる。


 こうして彼らは、懐かしい1950年代の自分たちの子供時代の東京、特に松本隆が育った青山、麻布、渋谷の三角形のなかを、谷川俊太郎や山之口獏といった現代詩のなかの言葉を足がかりに、既に消滅したものをより広い視野から復元することで、想像上の空間へたどり着いた。その足がかりは、文学だけではない。はっぴいえんどの空間の端のもう一方は、つげ義春、永島慎二といったマンガなどサブカルチャーにも繋がっていた。


 東京と日本各地の1950年代はまだ戦後だった。映画『この世界の片隅に』からも想像できるように、焼けただれた戦争の跡にアメリカ軍部の残留と政策によって意図されたアメリカン・メイドのデザインの流通による、新しい、日本とアメリカという地理的には離れてある場所が、奇妙に、そしてあからさまにつながった環境が生まれたときだ。


 ロックのビートのうえ、日本語の歌詞の音節をボーカリゼーションで解体/再構築するには、メロディ/ハーモニーとリズムの関係の見直しから始める必要性がある。松本隆というドラマーが歌詞を書いたことは、その作業に大きく貢献しただろう(ここでのはっぴいえんどの達成は、音楽評論家/プロデューサー萩原健太の素晴らしい『70年代シティ・ポップ・クロニクル』 (ele-king books) に生き生きと描かれているので、一読をお勧めする)。アメリカと日本という実在するふたつの場所を接続し、作りあげられる音と言語の空間“風街”は、1969年、全共闘が国際反戦デイに機動隊によって鎮圧された年から少しずつ構想され、翌年、“ゆでめん”とも呼ばれるアルバムによって具体化された。


 一方、1970年10月、ある雑誌に掲載された記事をはじまりとする、いわゆる『日本語ロック論争』により、はっぴいえんど側(松本隆、大滝詠一)との対立が煽られたフラワー・トラヴェリン・バンドは、グローバルな文脈でのサイケデリック世界の構築を達成していた。7人兄弟のうちたった1人、アフロ・アメリカンの父親を持つジョー山中が英語の歌詞とシャウトを聞かせた彼らは、来日したジャズ・ロック・バンドLighthouseに見出され、単なる曲の寄せ集めではない構成のアルバム『SATORI』をカナダの<アトランティック・レコード>からリリース。トロントで活動していたが帰国(この組曲的な『SATORI』のなかの1曲は、2017年ショーン・レノンによってカバーが発表された)。


 この雑誌『新宿プレイマップ』の座談会において、例えば、内田裕也のいった、


「言葉で“戦争反対、愛こそ全て”と云うんじゃくて若い連中がそこにいてそこにロックがあれば、何か判りあっちゃうと思うし」


 とは、明らかにウッドストック、トロント、ワイト島などで築き上げられた祝祭の空間と、小規模だが他の北アメリカとヨーロッパに数多く点在していたコンサート会場とライブハウスによるロックのネットワークへの期待とつながっている。この地球を覆う音響と視覚と触覚のコミュニケーションのネットワークは、白いミドルクラスの学生たちを支柱とし、ドロップアウト世代を端として世界中へと拡大されていくはずだった。


 フラワー・トラヴェリン・バンドが活動し成果をあげていたトロントを拠点に、メディア論のマーシャル・マクルーハンが「メディアはメッセージである」と身体の拡張を声を大に宣言したのは1967年である。ワールド・ワイド・ウェブの登場を予見したとされるマクルーハンの影響は巨大であり、こうした遠近法は、ロックのネットワークを映像作家/批評家の金坂健二に「幻覚の共和国(※註2)」、美術評論家の日向あき子に「ロックにしびれる世代がつくる無形のコミュニティ(※註3)」と呼ばせた。まだ学生だった渋谷陽一が、のちにその時期を振り返った文章を集めた著書に「メディアとしてのロックンロール(※註4)」と名付けたのも、マクルーハンの影響下にある。


「1970年代の頭というのは、政治の季節、70年代安保の時代でございます。あとは音楽の季節。1960年代から70年代というのは、文化の最先端が音楽でありました。それはレコードという1930年代ぐらいから作られはじめた音楽を記録する手段、それと録音技術のテクノロジーが1960年代から飛躍的に発展しまして、それまでは演奏の記録といいますか、そうしたものだったのが、レコードのなかの音世界というか、そういうものを探求する技術がものすごく発達しまして、音楽が、いろいろな絵画、演劇、文学といった文化がありますが、音楽がなによりも最先端になった時代です。そこに1970年代政治の季節、70年代安保という騒乱の時代がくっつきまして、たくさんのドロップアウトが生まれまして、そのドロップアウトした人たちが、ほとんど音楽の世界へ入り込んできたという、そのおかげで、それまでの日本の音楽にはなかったムーヴメントというのが生まれました。」(山下達郎、2015年、NHK-FM)


 アメリカの空前の規模のベトナム反戦運動と公民権運動はいうまでもない。


 1968年、パリ・ナンテール大学での学生のストライキを始まりとし、その2週間のうちに200万人の学生と労働者のストライキとなって、ミニスカートとレザー・ブーツ、クルーネックのセーターとコーデュロイのパンツがプロテストのメッセージを掲げる姿で一変したパリ市内の風景は、5月30日に消え去った。


 こうした状況は日本国内のそれと織り交ぜられ見ることができる。1968年6月1日から東京大学医学部全学共闘の学生約100人が安田講堂占拠にふみきった。この占拠と篭城は翌年1月19日まで続き、入学試験は中止。この間に、東京お茶の水周辺では日本大学、中央大学、明治大学の学生を中心に2000人規模の“神田カルチエ・ラタン闘争”と呼ばれる街頭バリケード騒動も起こったし、当時、国公立、私立大学の大半がなんらかの形で“闘争”状態になったといわれる。


 大学生だけではなく、1968年には小規模だが、高校生だけのデモも行われるようになった。3月には100人の高校生が王子で機動達とぶつかり3人の逮捕者を出した。4月26日には反戦高恊(反戦高校生協議会)というグループを中心とする200人の高校生が東京・青山の公園に茶色のヘルメットをかぶって集まった。彼らは受験勉強の合い間に、マルクスや毛沢東を読み目覚め、グループを結成したという。(※註5)


「高校生だった自分が初めて思想というものに強烈に出くわしたという感じだったの(中略)。だって、普通に学校から帰宅しようとすると電車が止まったりするわけじゃない。そうすると、「何で?」ってことになるでしょ。つまり「おまえはこの状況をどう思うんだ?」っていうことを問いかけられているわけ。で、そういった問題提起は恒常的にいろいろなところで行われていたわけ」(※註6)


 のちに、新進の文学者だった、いとうせいこうと組んで前衛としての日本語ラップ作品『MESS/AGE』をリリースしたヤン富田はこう回想する。


 はっぴいえんど、に戻る。


 1970年ではなく、そのあとにやってきて作品として『ゆでめん(はっぴいえんど)』や『風街ろまん』といったアルバムを、日本のロック&フォークは“ここから始まった”、もしくは日本語でロックを歌うことを考えたときに“最重要”と落着させることが、どのように彼らと私たちの言語/音の空間を再配向づけたか。


 そのとき、私たちが見るべき異なる風景は、1960年代のサパー・クラブ/ゴーゴー喫茶から、1970年代に加速し1977年の映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の日本公開とともに爆発したディスコ/クラブのネオンサインとフラッシュの明滅するフロアであり、また、北アメリカとヨーロッパをのぞくと世界的にも早い段階に音楽フェスティバルが行われた日本各所である。そのうちのひとつは、コメンタリーのクリス・マルケルが“境界を取り去った映画”と呼ぶ、ヤン・ル・マッソンの監督した例外的に美しい『鹿島パラダイス』に映し出された土地、三里塚(千葉県成田市)だ。


 着目したいのは、1966年から現在に至る成田空港建設反対の“闘争”についてではない。1971年に行われ、高柳昌行ニュー・ディレクションや高木元輝トリオといったフリー・ジャズ・ミュージシャンに、ブルース・クリエイション、ロスト・アラーフ、そして頭脳警察が出演したフェスティバル『日本幻野祭』である。


「事務所へ三里塚青年行動隊の有志がやってきた、成田空港建設阻止の闘争に明け暮れ、みんな祭りを忘れている、そこで祭りをやりたいのです、ぜひ頭脳警察に出てもらいたいという内容だった/ちょっと待て、祭りをやりたいのなら盆踊りをやりなさいよ、ロックコンサートをやりたいなどというのは学生達のマスターベーションにしかすぎないでしょ!と、思わず自分はそう返してしまった」(PANTA、Facebookの投稿より)


 頭脳警察は当初、フロントマンのPANTAにパーカッション/ドラムスのTOSHI、ギターの左右栄一、ベースの栗野仁、エリック、ジミーという男女混成6人のバンドだったというが、『幻野祭』に出演した際には、既にPANTAとTOSHIの2人で、パフォーマンスは歌詞の政治性により発売中止になった1stアルバム『頭脳警察1』からの「世界革命戦争宣言」、「銃をとれ」などアンコールを含め4曲だった。


 「世界革命戦争宣言」は、「君たちにベトナムの仲間を好き勝手に殺す権利があるのなら」、「ブラック・パンサーの同志を殺害しゲットーを戦車で押しつぶす権利があるのなら」、「君たち(註:ブルジョワジー)を世界革命戦争の場に叩き込んで一掃する」と朗読する曲だ。この詩の世界は、PANTAが同時代のロックやソウルはもちろん、フランスのシャンソンなど幅広く海外の音楽や文学に興味を持っていたことと関係すると思われる。


 頭脳警察のパフォーマンスについてはこう語られている。


「日本人ってこんなに踊りが好きなのか!って驚いたくらい、当時の頭脳警察のコンサートでは、客がだんだん前から立ち上がっていくわけ。いまでいうトランスなんだろうね、あれ。それがもう好き勝手な踊りで、君らはいったい何民族なんだっていう(笑)」(※註7)


 『幻野祭』で楽器はパーカッションとギターだけの頭脳警察を見ていた、もしくはダンスしていた客の1人に、その年に東京に住み始めた大学生がいた。その大学に8年間在籍していたのち中退し、同じ年にバンド、のちのJAGATARAを始める江戸アケミだ。


 その江戸アケミに大きな刺激を受けたとのちに語る近田春夫は、慶應高校在学中から幾つかのバンドでプレイしたのち、1970年代の半ばまでには内田裕也のバンドでもキーボード・プレイヤーとして参加していた。


 彼の初期のキャリアで注意するべきは、彼とそのバンド、ハルヲフォンが長い期間ディスコで演奏することを選んだその感受性の向きと関連する。「かっこいい人がおおかったからね。女の人なんかとくに。やっぱり見た目でかっこいいと思える人が多い場所で鳴ってる音の方が、自分にとっては魅力的に思えるんだよね。フォークの人とかって身体の動きがないんだよね」(※註8)、「俺はね、音楽ってディスコで聴くのがいちばんカッコいいって未だに思ってるんだ。日本人がディスコで成功した曲って1曲もないんだよ。ディスコを制覇したいっていうのが、夢なんじゃないかな」、「踊らせることが仕事だし。自分のこと観てるより、お客さんが自分の音で踊ってるのを観てる方が僕の性に合うんだよね。“スターのここを観てくれ”みたいなことより」(※註9)


 近田春夫はその頃から、一段高いステージ上の演じ手として音楽を一方向に流すことだけではなく、その音楽を生き生きとさせる場所、それ自体に関心があったように思える。


 彼とハルヲフォンは、長いディスコでの演奏活動やライブ・パフォーマンスを通して、ロックとは違う構造を持った音楽の存在にも気がついていた。


 ハルヲフォンによる1975年、郡山の第2回『ワンステップフェスティバル』のライブ・パフォーマンスのフッテージは、アフロ・アメリカンと日本人の間に生まれたキャロン・ホーガンをメンバーとして「FUNKYダッコNo.1」とアレサ・フランクリンの「Rock Steady」を続けて演奏する素晴らしいものだ。おそらくほとんどの観衆は知らないだろう「FUNKYダッコNo.1」が始まったときには、おとなしく座ってステージを見ていた彼らの多くは、2分も経たないうちに立ち上がり体を動かし始める。それに気がついたメンバーが「Clap Your Hands!」、ホーガンが「C’mon, dance to the music!」と煽動していき2曲目の「Rock Steady」になだれこんでいく。今度は日本語で「踊ってよ、みんな、踊ってよ」との声がビートに乗り、観客は熱狂していく。ハルヲフォンのドラマー・恒田義見のヘヴィなプレイは、明らかにブレイクビーツを予見しうるものだ。「Rock Steady」にしても「FUNKYダッコNo.1」にしても、劇的に始まる旅が調和して終わるという物語めいた曲に酔うのではなく、リズムの反復のなかで生まれていく持続する音世界で、バンドと観客が相互に掻き立てられてダンスに向う、その様子は暴動に向っているかのようにさえ見える。(荏開津広)


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註1:大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』(SFC音楽出版、1986年)
註2:金坂健二著『幻覚の共和国』(晶文社、1971年)で触れられている、ドラッグとロックで作られた新しい共同体。
註3:特集「ROCK IS… 原始性への回帰 日向あき子」『美術手帳』(美術出版社、1970年10月号)
註4:渋谷陽一著『ロッキング・オン増刊 メディアとしてのロックンロール』(一進社、1979年)
註5:『安保と全学連 続・スチューデント・パワー』(毎日新聞社、1969年)
註6:ヤン富田著『フォーエバー・ヤン―ミュージック・ミーム〈1〉』(アスペクト、2006年)
註7:ダディ竹千代、難波博之、井上貴子他『証言! 日本のロック70’s ニューロック/ハードロック/プログレッシヴロック編』(アルテスパブリッシング、2009年)
註8:『シティロード』1994年1月号(エコー企画、1994年)
註9:松永良平著『20世紀グレーテスト・ヒッツ』(音楽出版社、2007年)