トップへ

『カーズ/クロスロード』に見る、次世代に受け継がれるディズニー/ピクサーの精神

2017年07月22日 10:03  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 擬人化された車たちによる社会と、そこで繰り広げられるカーレースの興奮を、ピクサー・アニメーション・スタジオがCGで描いた作品『カーズ』。生意気な若手レーサー、ライトニング・マックィーンが、引退した偉大なレーサーや仲間たちと出会い、人生を学んでいく第1作。『マッハGoGoGo』を思わせるような、レースの裏にある陰謀をマックィーンと仲間たちが暴いていく要素を加えた第2作。そして、3作目となる本作『カーズ/クロスロード』は、第1作の師弟の思い出に立ち返り、今まででレースの神髄に最も肉薄する、シリアスな作品になった。


参考:小野寺系の『メアリと魔女の花』評:“ジブリの精神”は本当に受け継がれたのか?


 数々のレースで伝説を打ち立て、いまやベテランとなったライトニング・マックィーンは、新型の次世代マシンたちに圧倒され、引退を迫られている。逆らい難い時代の流れのなかで、プライドをズタズタにされながらも第一線で再起の道を模索していく本作は、全編を通し、今までにない悲痛な雰囲気に包まれている。しかしそれは、ピクサーがこれまでに取り組んできた挑戦的姿勢を示していると感じるのだ。今回は、その『カーズ/クロスロード』に隠された様々な試みを深く読み取っていきたい。


■「クロスロード」が意味する斬新な脚本術


 次世代マシンの台頭で自信を喪失したマックィーンは、新オーナーと、ヒスパニックの女性トレーナー、クルーズ・ラミレスのサポートのもと、最新の設備でトレーニングを行うが、新世代のやり方にマッチせず、速くなるどころか、どんどん自信を喪失していく。彼はラミレスとともにアメリカ各地に旅をしながら突破口を見つけようともがく。通常のアニメ映画なら、その旅を通して、いろいろと大事な何かを発見し、見事ライバルに勝利するという展開になるだろう。だが本作では、いつまで経ってもマックィーンの勝てる条件が見つからない。勝つ要素が描かれずにレースに勝ってしまえば、説得力も感動も与えられない、身勝手な作品になってしまう。いわゆる「スポ根アニメ」の定石を理解している観客ほど、「これ、どうなっちゃうの?」とハラハラさせられてしまうのだ。


 このような流れから、この脚本は失敗なのかと思わされてしまうが、本作は画期的な仕掛けを用意している。ピクサーは集団で意見をぶつけ合い、脚本をブラッシュアップしていく手法をとっているが、その優秀な脚本のなかでも、今回は「技あり」といえるものになっている。そこで本作の邦題「クロスロード」の意味も理解できるのだ。


 そもそも、旧世代が新世代に対して、ベテランの味で勝利するという、誰もが予想できる単純な物語を作ったところで、それは一時の勝利でしかなく、古い世代が衰退していくことになるという事実は依然として変わらない。本作は無責任な希望を与えるのでなく、世代交代というテーマに対して、ひとつの誠実な答えを提示していると感じる。


■人生を楽しむこと、負けを噛みしめること


 ライトニング・マックィーンの名の由来は、レース狂のスター俳優、スティーブ・マックイーンが連想されるが、実際はピクサーで活躍し、病にて世を去ったアニメーターの名前からだという。マックィーンの師匠となるドック・ハドソンの声は、プロレーサーとしてデビューし、79歳になってもレースに出場し話題になった、もう一人のレース狂スターである、ポール・ニューマンが演じていた。ポール・ニューマンは『カーズ』の第1作とスピンオフ作品の声を演じた後、惜しくもこの世を去ったが、本作『カーズ/クロスロード』では、今までに録られ使われなかった音声をアーカイブ化し、それを活かすように作られているという。


 レース狂というだけでなく、『暴力脱獄』や『明日に向って撃て!』などアメリカン・ニューシネマの反骨精神あふれる役のイメージ、そしてベトナム戦争への抗議活動などで政府のブラックリストにまで載ったというポール・ニューマンの精神性は、ひとつのヒーロー像として、いつでも大衆に求められているものである。本作で彼のイメージに立ち返るのは、その無形の遺産を継承し次世代に伝えていくという意図もあるだろう。


 本作の多くのキャラクターと同じく、ポール・ニューマンが演じたドック・ハドソンにも実際のモデルがいる。50年代にストックカー・レースの先駆者となったハーブ・トーマスと、彼がチャンピオンシップで優勝したときに乗っていた車「ファビュラス・ハドソン・ホーネット」である。マックィーンは、この自分が受け継いだ魂のルーツを辿る旅において、かつて彼が活躍した伝説のダート(未舗装)コースを走行し、田舎のロードハウス(街道沿いのバー)で酒を飲みながら、ドック・ハドソンの昔の仲間たちと語り合う。勝つことも、負ける苦味も、いつかはみんな昔話として、酒の肴になるのだ。競技が終わっても、こうして人生は続いていく。


 ピクサーは、アニメーションのなかで深みのある人間ドラマや人生の意味について扱ってきたが、子ども向けアニメーションが、ついにこういう渋い領域に入ったきたというのは感慨深い。こんなものは大人が喜ぶだけだろうという意見もあるだろうが、子どもたちにこういう描写を見せることが無意味であるとは、私は思わない。誰もが人生やキャリアの終わりを迎える。それをしっかりと意識することで、今を精一杯生きて、人生を楽しむことができるのではないだろうか。夢に敗れても、走る道は常に残されているのだ。


■ジョン・ラセターの伝説と『カーズ』


 ライトニング・マックィーンのカー・ナンバー「95」は、ピクサー・アニメーション・スタジオが『トイ・ストーリー』を発表した伝説の年、1995年を意味するといわれる。『カーズ』前2作の監督であり、ピクサー創立の中心メンバーであるジョン・ラセターは、かつてCGの導入をうったえて、古巣であるディズニーから締め出された経緯を持っている。その後、ピクサーは『トイ・ストーリー』をはじめとする数々のCG作品でヒットを連発し、ディズニー作品を、ビジュアルや脚本によって凌駕していく。その後、ジョン・ラセターはディズニーのピクサー買収により、いまではディズニー、ピクサー両スタジオの製作を統括する立場となった。この間に行われた、手描きアニメーションからCGアニメーションへの移行は、本作で描かれているような、旧世代と新世代の交替を思い起こさせる。しかし、ラセターはCGを使うことで、従来のアニメーションと全く違うものを作っているという意識はないようだ。手描きもCGも、その根っこにあるのは、かつてラセターがアニメーターとしてディズニーで学び取った、ものづくりの精神である。彼が怨恨にとらわれず古巣へ帰還したのは、アニメーションづくりへの愛があるからに他ならないだろう。


 本作では、新オーナーがマックィーンに引退をうながし、キャラクタービジネスで稼ぐことをもちかけるシーンがある。


「君は十分頑張った、レースからは引退して報酬をもらうべきだ」


「報酬はレースに出ることです。驚くような速さでライバルたちを抜き去るレースをする、それがぼくの望む報酬なんですよ」


 この目頭が熱くなってくるようなマックィーンの望みは、気骨あるアニメーターに通じるものがある。ディズニーの伝説も、ピクサーの伝説も、それを受け継いでいく者は、それを儲けるだけの道具にしてはならない。今回、ジョン・ラセターからシリーズを受け継ぎ、初めて監督に挑戦したブライアン・フィー、そしてスタッフたちは、ピクサーの精神を、そしてそのルーツであるディズニーの精神をしっかりと受け継ぎ、また次世代に継承していくことを、『カーズ/クロスロード』で宣言しているのだ。(小野寺系)