今年で20周年を迎えるツインリンクもてぎ。関東圏だけでなく、日本のモータースポーツにとって大きな役割を担ってきたツインリンクもてぎについて、ドライバー自身の記憶と思い出と共ともに振り返る短期集中連載企画。今回は松浦孝亮選手に聞いた。
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1998年に鈴鹿サーキットレーシングスクール・フォーミュラ(SRS-F)を卒業すると、若手ドライバー育成プロジェクト『フォーミュラドリーム(FD)』の初年度から出場。参戦2年目で王者になり、そのスカラシップでドイツF3へ。2004年から4シーズンにわたりインディカーシリーズに参戦するなど、欧米でキャリアを重ねてきた。
その松浦にとって、ツインリンクもてぎは「鈴鹿同様に自分を育ててくれたところ」。当時のFDは鈴鹿ともてぎのみで開催されており、その最終戦の舞台がツインリンクもてぎだった。ランキングで接戦になった末に最終戦で勝利、チャンピオンを獲得した。
「あの時、勝っていなければ、今の自分はここにいないという思いがある。当時、松本恵二さんから『こんなレース、ぺろっと(簡単に)勝たんと次ないで』と言われました。あの時は必死だったけれど、がむしゃらに戦っているようじゃダメだなという気持ちも自分の中にあったんです」
心に一番響いた大先輩の言葉は、のちに海外でのレース活動の支えとなった。
「次にツインリンクもてぎへ帰ってきた時は、インディカー・ドライバーになっていました」
母国での凱旋レースをツインリンクもてぎで体験する。
「FDを卒業し、ドイツF3、フォーミュラV6と、ずっと日本でレースをすることなく帰ってきたのが、インディ・ジャパン。あの時の感覚は、自分の中でも忘れがたい記憶になっています。4シーズン連続と単発で1度、合計5回走ったんですが、すべて宝のような思い出です」
一方で、違った意味で心に残るレースも体験した。初の凱旋レースから3年目、07年のインディ・ジャパンだ。
「9番グリッドからスタートしてすぐ、1コーナーのバンプでスピン。普通、あそこは基本アクセル全開。ちょうど1コーナーと2コーナーの間にトンネルがあってそこにバンプがあるんですが、タイヤが温まっていないなかでスタートして内圧も上がってないし、車高も低い状態だから底を打ってしまったのかなあ……。なぜあんなことになったのか、ちょっと不思議でした。今でこそ仕方ないって言えますが、あの時はこんな気持ちすらなかった。今でもほかのことも含め、よく覚えていないんです」
ほろ苦い思い出を経て、今また日本のレースに復帰、もてぎのロードコースを走る松浦には、再びここでチャンピオン争いに挑みたいという願いがある。
「スーパーGTでは毎シーズン、ツインリンクもてぎで最終戦が行なわれているので、自分たちのクルマがチャンピオン争いしている状態でもてぎに来たいですね」
自らの手でプロドライバーとしての道を切り開いた場所、その地で優勝したいという思いを持ち続けている。