トップへ

須藤凛々花の結婚発表を機に、“アイドルの恋愛禁止”を改めて考える

2017年07月08日 10:03  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 2017年のAKB48選抜総選挙で最も話題をさらったのは、NMB48・須藤凛々花の「結婚発表」だった。開票イベントでの発表直後から、「表舞台で発表するべきことなのか」「それが総選挙イベントという場であるべきだったのか」といった疑念を呈するものから、「アイドルとは何か」というきわめて大枠の問いをあらためて掲げるものまで、さまざまな水準の語りがいくつも投げかけられた。その方向性はともかくとして、AKB48グループに対外的な訴求力をもたらした出来事だった。


 この記事は、そうしたさまざまな水準の議論を概観するものではなく、また「結婚発表」をすること自体への是非を語るものでもない。その手前の段階として、そもそも結婚を発表することが、なぜことさらに“スキャンダル”めいた話題に分類され波紋を呼ぶ事態になってしまうのか、その背景についてあらためて考えておくための稿である。一般に、芸能人や著名人の結婚がすぐさま“スキャンダル”になるわけではない。


 ことAKB48グループについていえば、その喧騒の背景には「恋愛禁止」なる、このジャンル特有の規範がある。開票イベントの日から繰り返された議論はそれぞれに、この規範に対する論者の姿勢が意識的・無意識的に反映されたものになっている。けれども、話が拡散すればするほど、足元にあるその規範に関する整理や前提の共有はおろそかになったまま語りが氾濫していく。


 この連載第一回で詳述したように(アイドルの「恋愛禁止」は守り続けるべきものなのか?)、AKB48グループに関して、「恋愛禁止」なる言葉で世に流布しているものは明示的なルールではない。そもそも、一元的に定義することのできない「恋愛」を、「禁止」することなどできようもない。「恋愛」という言葉で差され、取り沙汰されているのは実質的に、「(異性愛を前提とした)他者との性的な交渉を匂わせるような何か」ということになるだろう。


 そもそもこの「恋愛禁止」はAKB48以前から、アイドルというジャンルにおいて風潮のようなものとして数十年温存されてきたものだ。かつて、AKB48が自らのコンテンツのタイトルに「恋愛禁止条例」と名付けたその姿勢には、同ジャンルがかねてより抱え込んでいる風潮を、あえてネタ化してみせるような動きも垣間見えた。けれども、そうしたネタ化は「風潮」を相対化するのではなく、むしろ「恋愛禁止」なる言葉は年月をかけて、規範として素直に組織全体に内面化されていった。わかりやすい明示的なルールや強制力としてではなく、あくまで規範として曖昧に運用されてきた結果の「内面化」であるゆえに、48グループをとりまく「恋愛」に対する禁忌のありようは単純でない。「恋愛禁止」に対する批判や異議申し立ては、まずこの実質的な性格をつかまなければ、議論の前提を読み違えてしまう。「人権侵害」という、一見してまっとうな批判の言葉がストレートに効果をもちにくいのはそのためだ。


 ただし、上記の指摘に「恋愛禁止」なるものを擁護する意図はない。連載第二回で論じたように(アイドルと性をめぐる3つの論点とは? http://www.realsound.jp/2015/07/post-3985.html)、しばしば「恋愛禁止」を基礎づける理由としてあげられる「性の商品化」や「疑似恋愛」といった要素にのみ、アイドルというジャンルの魅力を限定してしまう必要はない。また、芸能人や著名人について「疑似恋愛」が発生することと、「恋愛禁止」という規範が求められるかどうかとは別次元の問題であり、即座に直結するものではない。「恋愛禁止」という「代償」によってしかアイドルというジャンルの価値を十全に保てないという発想は、このジャンルの可能性を小さく見積もるものだ。


 また、AKB48グループが世の中に対して強い影響力を持つポップアイコンである以上、そして姉妹グループのさらなる全国展開をはじめとしてそのプレゼンスを拡大する志向をもつ以上、社会とのすり合わせは不可避である。社会通念的にみていびつな規範を是とすることは、世の中との乖離を生んでいく。もともと、須藤の「結婚発表」がなかったとしても、組織にとって常に葛藤や矛盾の種になってきたのが「恋愛禁止」であり、だからこそ彼女のスピーチは即座に「波紋を呼ぶ」類のものになった。


 もっとも、AKB48グループは「恋愛禁止」を曖昧に温存することによって生じた規範のほころびを、むしろ物語として利用しながらグループやメンバーの活性化を促してきた。HKT48の指原莉乃が、決してトリックスターでも邪道でもなく、48グループを正統に代表し最も社会から受け入れられるタレントになる契機も、おそらくは規範のほころびが物語化された時点に求めることができるだろう。そしてまた、彼女の歩んでいる道程や存在の大きさ自体が、現在あるような規範が本当に温存されるべきものなのかという問いかけにもなっている。


 ただし、引いた目で見ればそれは、指原莉乃という個人の卓越したバランス感覚とタフさが事態を好転させたにすぎない。彼女の“スキャンダル”としてなされた「報道」は、一人の人格に対して非常に暴力的な性質のものであったことは忘れられるべきではない。組織が内包する規範が“スキャンダル”あるいは“物語”として機能し続けるとき、その価値観のいびつさを体現するのはメンバーたち自身である。「恋愛禁止」という規範そのものの是非とはまた異なるレベルで、もうひとつの問題はこの点だろう。


 社会的に強い拒否反応を喚起する規範に関して、遵守であれ異議申し立てであれ何らかのスタンスを表明し、さまざまな反響の矢面に立つのは常に、組織全体についての決定権をもたないメンバーたちだ。もちろん、群像劇の中で彼女たちの主体性が発露していくのは、48グループの大いなる美点である。しかし、大きないびつさや理不尽さをはらむ価値観を温存したうえで、その規範の中で10代を過ごす人々に、規範自体への価値判断を託し、矢面に立たせることはとてもあやうい。この先、議論や風向きがどちらに向かうのであれ、そのことは自覚されなければならない。


 「恋愛禁止」という古典的かつ錯綜しがちなテーマがとりあげられる際、その議論はアイドルというジャンルに対する感覚的な嫌悪を正当化するためになされるべきではないし、多様なアウトプットの可能性を持つこのジャンル全体を、単一のイメージで覆って否定されるべきでもない。だが、「恋愛禁止」が平和な箱庭の中で幸せに共有されているものだと思い込むこともまた、ある意味でこのジャンルを軽んじることになる。どの立場から発される言葉であれ、文化としての敬意を払ったアプローチがなされるべきだ。(香月孝史)