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『やすらぎの郷』はシニア男性のドリーム全開!?  昭和的な女性観に物申す

2017年07月08日 10:03  リアルサウンド

リアルサウンド

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 話題の昼ドラ『やすらぎの郷』(テレビ朝日)が7月で折り返し地点を迎えた。ドラマ・映画関連のライターである筆者が仕事を抜きにしても、今、最も楽しみにしているドラマである。4月に放送スタートして以来、思い切ってシニア向けに特化した画期的なキャスティング、テレビ業界を批判する“忖度(そんたく)しない”内容、さすが倉本聰とうならせる魅力的なセリフと巧みな構成、などが評判になっているが、とにかくドラマとしての基礎点が高いので、見ていて気持ちが良い。ちゃんとしたセリフをちゃんとした役者が言う。それがこんなに楽しめることとは。主演の石坂浩二が語る冒頭の長いナレーションひとつとっても、「うまいな、なかなかこうスムーズにかつ感情込めては言えないな」と感服。やすらぎの郷というテレビ業界人専用の老人ホームに入った俳優やコメディアン、脚本家たちが、自分の考えや主張をはっきり口に出して言い、時にわがままに振る舞うのも、仕事で忖度ばかりしている現役世代にとっては、羨望にも似た気持ちを呼び起こすのではないか。


参考:向井理で引っ張りまくった『やすらぎの郷』、批判もエンターテイメントに昇華する凄さ


 “センセイ”こと脚本家の菊村(石坂浩二)、“マロ”こと真野(ミッキー・カーチス)、“大納言”こと岩倉(山本圭)というレッツゴー三匹的な男3人組にも癒やされる。毎週のように、海辺の岩場に3人並んで座り、釣りをしながら人生について語る場面が出てくるのだが、シニア俳優たちを毎回ロケに出動させるわけにもいかないので、スタジオでグリーンバックで撮り、海辺の背景を合成しているのだろう。昭和を代表する名優たちが、緑色の背景の前で「あっ、(釣り糸が)引いているよ」、「おっとっと」などと小芝居をしていると思って見ると、なんとも微笑ましい。すっかりランチタイムの癒やしである。


 しかし、82歳の男性である倉本聰の描くこのフィクショナルな世界に、女性として違和感を覚えるのも確か。まず序盤の4月放送分で、女優の路子(五月みどり)が菊村に舞台の脚本を書けと提案した「女の一生」のアイデアに驚いた。路子が「女には三つのターニング・ポイントがある」と言い出したので、「なんだろう? 普通に考えて『初恋・結婚・出産』かな?」と思っていたら、答えは、


「ひとつ、誰かに処女を捧げるとき」
「ふたつ、男にお金で買われるとき」
「みっつ、誰からも振り返られなくなって、自分がお金を出して男を買うとき」


 だったので、テレビの前でひっくり返りそうになった。「男に買われるとき、男を買うとき」って、セックスって金銭の受け渡しなしに成立しないんですか。それとも、この三つを考えた昭和の女優たちの間ではそれが当たり前のことなんですか。だとしたら「残念な人生」としか思えないけれど、それを女優の路子は「これぞ女の人生」とうっとりした顔で言い、このアイデアを聞いた同じく女優の冴子(浅丘ルリ子)も「共感できる話だわ」とばかりに、激しく同意するのであった。愕然。


 このアイデアは1週かぎりの“とんでも話”かと思っていたら、野際陽子演じる覆面作家の涼子が「流されて」というタイトルで小説にしてしまい(ほんと流されすぎの人生だよ!)、さらに7月放送分に入って本当に舞台化するという話に。主人公の菊村がその台本を書くことによって脚本家として復帰するのかという、メインどころの展開にもなってきている。まさか、その舞台がドラマ中でも上演され、ルリルリが「老いた私が誰にも相手にされなくなって、男を買った。ああ、これが女の人生だわ!」と熱演することになるのか?(ちなみに現実のルリルリはお金を出さずとも恋愛現役らしい)今後もまったく油断できず、目が離せない。


 「女の三つのターニング・ポイント」は、ぶっとびすぎているので、フェミニズム的に見ても、ほとんど笑い話のレベルなのだが、他に6月放送分でも違和感を覚える描写があった。やすらぎの郷の海辺で、涼子が真っ裸で泳いでいるという「ヌーディストビーチ」ネタがあったのだが、それを見ている “マロ”が言いたい放題。


「見て得するもんじゃない」
「あいつ、今年は脂肪がついたなぁ」
「プロポーションだけはまだ崩れていないから」


 涼子は自分が脱ぎたいから脱いでいるし、男性に見られても構わないということだったので、そこで終わっていればまだしもスルーできたのだが、若い女性と比較されるに至って、違和感はますます膨らんでいく。


 菊村、“マロ”、“大納言”は、ビーチで水着になった20代の女性スタッフを、双眼鏡でのぞき見る。


「ピチピチしたのがいるぞ」
「ばあさんのヌードとはだいぶ違う」
「あれが(ばあさんのように)なっちまうのかな」
「時ってのは残酷だね」


 というやり取りがあった上で“マロ”は叫ぶ。


「なぜだ。(若い)あの2人がああなっちまうのを(ばあさんになるのを)、マロは許さん!」


 これはいくらなんでも女性をバカにしていると思うのだが、いかがなものだろうか。しかし、「いやいや、まぁ、これも男性の本音でしょうね」と広い心で受け止めようと思った筆者に、さらに追い打ちがかかった。劇中、その日の深夜、“姫”と呼ばれる清純派女優・摂子(八千草薫)が菊村を訪ねてきて、「血圧が上がって具合が悪い」と嘘をつく菊村に、こう言うのである。


「夕子(自分の付き人)ね。あの子、意外とグラマーなのね、あれ見せられたらねぇ(血圧上がっちゃうわよね)」


 同年代の高齢男性が若い女性の水着姿を見て興奮することを、慈母のように理解し許容する女性。嗚呼、男のスケべ心はそうやって承認されることまで求めてしまうのだろうか。


 そのシークエンスで描かれたのは、老いた女性のヌードは見たくもないもので、「若い女性の体に絶対的な価値がある」ということ。それとは対照的に、女性にとっては「男性の体は老いても価値がある」と描いたようなところもあり、驚かされた。


 5月放送分、かつてプレイボーイでならした秀次(藤竜也)が入居してくる。摂子、涼子らのシニア女優たちは女子高生のように大騒ぎ。秀次がぎっくり腰になってしまうと、彼のコテージに押しかけ、「オムツを履かせるのは私よ!」と争うように世話を買って出る。これはなぜかと思ったら、後に「秀さんの(局部を)見たかったから」ということが判明。そんな70歳過ぎた女性たちが、同年代男性の局部なんて見たいものなんだろうか? どう考えても男にとって都合の良いドリームとしか思えない。


 そもそも、基本設定として妻に先立たれ実質独身となった脚本家が、かつての日本を代表する美人女優たちと共に暮らすことになり(しかも無償で!)、「先生、先生」と美女たちから頼りにされるという夢のようなお話。やすらぎの郷のスタッフを見ても、女性は「元大手航空会社のキャビンアテンダント」なのに、男性は「刑務所から出てきた前科者」というのも、首をひねってしまう。サービスされるなら(しかも無償)、女性は美しくて優しく気配りのできる人、男性は遠慮なく「おい」とあごで使える人、ということなのだろうか。


 そんなふうに随所に違和感を覚えるのだが、だからと言って、このドラマが企画・脚本・演技の面で画期的であることには変わりはない。ポイントとしては、そういった女性観の古臭さを感じることを言ったり行動したりするのが、ほとんどの場合、主人公の菊村ではないので、いやらしさが軽減されることも大きいだろう。元祖シティボーイである石坂浩二が、ご本人のキャラクター的にも役柄的にも、緩衝材になっている。


 筆者も、多くの視聴者も“政治的に正しいおとぎ話”を見たいわけではない。ただ、「これって高齢男性の幻想だよね」ということは申し上げておきたい。最近、ネット上で炎上した美術館で女性ハントをもくろむ“ちょい悪ジジ”問題とも通じるのかもしれない。そして、それが男性のニーズだとしたら、女性のニーズとして、いわゆる“乙女ゲー”(女性向け恋愛ゲーム)的な、男子校に男子と偽って入学したヒロインがモテモテというようなドラマが存在することと同じなのだと思う。ただ、そのことを指摘する言説が見受けられなかったので、この場を借りてひとこと言いたい。「面白いんだけど、女性としてはちょっとついていけないところがあります」。(小田慶子)