今年で20周年を迎えるツインリンクもてぎ。関東圏だけでなく、日本のモータースポーツにとって大きな役割を担ってきたツインリンクもてぎについて、ドライバー自身の記憶と思い出と共ともに振り返る短期集中連載企画。今回は塚越広大に聞いた。
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塚越広大は6歳で初めてカートに乗り、その3年後にレースデビュー。翌年に初のチャンピオンを獲得して以来、数々のタイトルを手にし、2003年には全日本カートの最高峰、FSAクラスでチャンピオンに輝いた。
さらに4輪にステップアップしてもその快進撃が止まることはなかった。05年に参戦したフォーミュラドリームではシリーズ全9戦でポール・トゥ・ウインを達成する圧倒的な強さでタイトルを獲得。あるレース関係者から『四半世紀にひとりの逸材』『西の小林可夢偉、東の塚越広大』とまで言われた。
しかし、06年からシリーズ参戦した全日本F3ではなかなか思うような結果が出せなかった。そして08年、塚越は単身ヨーロッパへ渡る。イギリスの名門チームからユーロF3に参戦。優勝こそ果たせなかったものの、2位表彰台を4度獲得して本来の速さを示した。
帰国後、塚越は国内のトップカテゴリーにフル参戦を開始すると、3戦目には天性の速さを見せつけた。それが09年ツインリンクもてぎでのフォーミュラ・ニッポン第3戦、雨が降ったり止んだりする難しいコンディション下でのレースだった。
「雨が少し降っているなかで予選3番手からスタートして、3周目ぐらいにトップに立ったんです。気持ち良く走っていたら雨が降ってきたのでレインタイヤに交換して、そうしたら今度は晴れてきた」
ここで誰よりも先にピットに入ったのが塚越だった。
「スリックに替えてしばらくすると、また雨が降ってきたんです。ドライのままでいくかレインに替えるかという状況で僕だけドライで走り続けました」
この時、塚越は難しいコンディションのなか、文字どおり“水を得た魚”のように、ただひとり異次元の走りを見せた。結果的に雨が強くなり最終ラップで表彰台を逃したものの、4位フィニッシュ。塚越にとっては思い出深いレースになったという。
「結果云々というより、レースを見ていた人たちに衝撃を与えられたというか、『塚越広大』というドライバーの存在をアピールできたレースだったと思います」
それから8年。現在もトップカテゴリーで活躍し続ける塚越広大に自身の“地元”でもあるツインリンクもてぎに対する想いを訊いた。
「栃木の中でツインリンクもてぎの認知度が上がれば、もっともっとレースの認知度も上がると思うんです。ですから僕も、そのためにできることは協力したいし、手伝えることがあればやっていきたいと思っています。アウトドアでもいいし、レースでもいいので、年に一度は地元の人たちが遊びに行けるような施設になってほしいですね」