2017年07月03日 12:03 弁護士ドットコム
熊本県産山村が10月から、村外に住む約4割の職員に対して転居を促すため、通勤手当を最大で約8割カットする。
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報道によると、村にはJRの駅がなく、43人いる職員のほとんどはマイカー通勤。現在通勤手当は距離に応じて13段階あるが、10月以降は5キロ未満と5キロ以上の2段階となり、支給額は月額で2000円と4200円に変更されるという。
災害時の対応や経費削減が目的だというが、村内転居を推奨するために手当を減らすといった対応は、憲法の「居住・移転の自由」の侵害にあたらないのだろうか。作花知志弁護士に聞いた。
「居住・移転の自由」の問題は、実はとても興味深いものです。歴史的に申すと、「居住・移転の自由」は、経済的な人権である、とされていました。かつて、どこに住むのかを制度上強制されていた時代がありました。どこで住み、どのような職業を営むのかを強制していた時代があったわけです。
そのような封建的な制度から人を解放し、どこで住み、どこに移転し、どこでどのような職業を営むのかを自由に選択できることを、憲法22条1項は「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」と規定したのです。
ただ、経済的な人権というのは、えてして法律や条令での制約を受けやすい、とされています。すると、「居住・移転の自由」もそうなのか、と申すと、実はそうではないのです。
と申しますと、そのような歴史的な背景に加えて、現在では「居住・移転の自由」はさまざまな場所に住み、移転することで、人と触れ合い、新しい経験をすることで、自らが精神的に成長していくことができるための人権でもある、とされているからです(最高裁第三小法廷昭和60年1月22日判決における伊藤正巳判事の補足意見参照)。そのように、現代では「居住・移転の自由」は、経済的な人権の側面と、精神的な人権の側面の両側面がある、と評価されているのです。
とすると、そのような精神的な人権の側面を有する「居住・移転の自由」の制約について、裁判所は当然厳格に、積極的に、その制約が憲法22条1項に違反しないのかを、その対応の目的と手段の両側面から、審査する必要があります。
すると、今回問題となっている「災害時の対応や経費を削減することが目的だというが、村内転居を推奨するために手当を減らす」という対応は、村への居住を促すという政策のために減額するのは通勤手当の趣旨そのものに沿わず、目的そのものに合理性がないと思えます。
手段としても手当を最大で約8割カットすることで村内転居を促すというものであり、通勤手当は通勤にかかった費用を支払う実費弁償の性格があることからすると、手段が目的との間で、なんら合理性を有していないと思います。このような対応には問題があると考えます。
(弁護士ドットコムニュース)
【取材協力弁護士】
作花 知志(さっか・ともし)弁護士
岡山弁護士会、日弁連国際人権問題委員会、国際人権法学会、日本航空宇宙学会などに所属。
事務所名:作花法律事務所
事務所URL:http://sakka-law-office.jp/