開業20周年を迎えたツインリンクもてぎ。その歴史に縁深いドライバーたちに、ツインリンクもてぎにまつわるエピソードや想いを聞く短期集中連載企画、第3回は脇阪寿一の登場だ。
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1996年に全日本F3チャンピオンとなり、翌97年、奇しくもツインリンクもてぎの開業と同じ年から国内第一線に浮上した脇阪。フォーミュラ・ニッポン(現スーパーフォーミュラ)での初優勝は、参戦2年目の98年6月、ツインリンクもてぎロードコースで成し遂げられた。鈴木亜久里が率いるARTAに移籍し、前年王者マシンであるローラT97を得て、自他ともに躍進が期待されたシーズンのことだった。
「あのマシンは当初、セッティングしなくても速いくらいでした。ただ、テストやレースで壊してしまって(苦笑)、不運も重なったりして勝てないうちに遅くなってきてしまったんです。これ以上はダメだ、というところ(4戦目)で優勝できて、ホッとしました。亜久里さんにも恩返しできたと思いましたしね」
予選は4位だったが、雨中のスタートでトップに立っての勝利だった。「あの時は前のノルベルト(フォンタナ)に追突しそうになって、インに飛び込んだんです。そうしたらトップに出ていた、そんな感じでした」
脇阪といえば、なんといっても一昨年まで現役だったJGTC~スーパーGT/GT500クラスでの活躍が人々の記憶に残る。「もてぎはGTの最終戦の舞台として定着していますから、そのイメージが強いですよね」。脇阪も2009年、自身3回目のGT500王座戴冠はもてぎで決めているが、印象として強いのは00年JGTC開幕戦もてぎ、その予選らしい。「2位に1.5秒差をつけてポールポジションを獲ったことをおぼえています。マシンも速かったし、僕も乗れていました」
その時の脇阪のマシンは、ホンダNSX。トヨタ/レクサスのイメージが圧倒的な脇阪だが、00年までの彼はホンダ系ドライバーだった。それだけに草創期のツインリンクもてぎは開発テスト等で、よく走り込んでいる。しかもそれは、ロードコースだけに留まらなかった。
「あの頃、開発車両があったじゃないですか。そう、ML(※後述)ですよ。あれのオーバル仕様のテストを、もてぎのオーバル(スーパースピードウェイ)でやっていました。ホンダさんがアメリカ志向を強めていた頃でしたよね」
MLとは当時、ホンダ、無限、童夢が開発に関与していたF3000級のスタディマシンで、MLはツインリンクもてぎライツ、無限ライツ、あるいはメジャーリーグの略称ともいわれた。そのMLの件を含め、脇阪はツインリンクもてぎのオーバルをかなり走り込んでいたようだ。
「僕、インディライツのチャンピオンにも負けてなかったんですよ」
流れ次第ではアメリカ挑戦という可能性もあったかもしれない。
ツインリンクもてぎロードコースは「好きなコースですし、僕の乗っていたマシンや僕のドライビングに合っていたんだと思います。テンポが分かりやすいし、こう走るべき、というのも分かりやすいですね」
さらにはこんな面もあったという。「自分は不安になるとブレーキ重視になりすぎるところがあるんですが、もてぎはブレーキも大切だけど、実は立ち上がりでアクセルをどれだけ早く踏めるかが重要でもある。自分のドライブが行きすぎた時には、それを修正してくれるコースでもありました」
そして脇阪は、ツインリンクもてぎに対してこんな言葉を贈る。
「もてぎの誕生によって日本におけるメインコースがひとつ増えたわけですから、攻めるコーナーも増えて、それだけドライバーは技量と経験値を増すことができたんです。『ありがとう』ですし、『これからもよろしく』ですね」