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ドイツから生まれた異形の傑作『ありがとう、トニ・エルドマン』 甘くてにがい父娘の関係描く

2017年06月25日 10:03  リアルサウンド

リアルサウンド

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 先日たまさかAKB48総選挙の直前特番を見ていたら、メンバー4~5人がそれぞれ帰省して、思い思いに実家で親とふれあう様子を密着ドキュメントしていた。そこで印象的だったのは、娘と父親が平和に語らい、レッスン時代の送り迎えに感謝し、あまつさえ父親の読み上げる激励の手紙に涙の一つも浮かべたりしていたことである。どんなに不細工なファン相手にも愛想よく両手を握り締められぬようでは、どうやら今日のアイドルは失格らしいから、世の一般の娘たちのように父親をウジ虫のごとくただ忌み嫌っているだけでは、論外なのであろう。


参考:みうらじゅん、黒木瞳、呉美保ら『ありがとう、トニ・エルドマン』に絶賛コメント


 そういう意味では、『ありがとう、トニ・エルドマン』の主人公の父娘二人は、日本の一般家庭と変わらない、ギスギスした父娘関係である。お父さんの触ったもの、身に着けたものは単にバッチイし、お父さんの放つ冗談は単にサムいだけである。最初から断っておくけれど、本作はそんな父娘関係がほどよく温まったり、安い感動的ラストに持っていったりはしない。砂糖菓子ではないわけである。真夜中に口にするイェーガーマイスターのように一見甘くて、でもにがい。


 映画は冒頭、宅配便の青年が、父ヴィンフリート(ペーター・ジモニシェック)の家にネットショッピングの荷物を届けにきただけなのに、ヴィンフリートがわざわざ変装によって兄と弟の二役を演じるのに付き合わされる。爆弾犯である弟のトニ・エルドマンは最近出所してきたが、荷物の受け取りにサインしながら「信管を外すのが楽しみで仕方がない」などと口にして、宅配便の青年を凍りつかせる。さらには“ピー、ピー”なんてアラーム音までが鳴り響いたりする始末で、「心配しなくていい。ただの心電図測定だ」。映画は万事そんな調子で飄々(ひょうひょう)と続いていく。


 コンサルティング会社のルーマニア支店で好成績をあげている娘イネス(サンドラ・ヒュラー)が久しぶりにドイツに帰省して、離婚した父母と食事を共にするが、食卓にすらまともにつかずに、玄関の外で電話ばかりしている。“忙しいのに、帰ってきてあげたわ”と言わんばかりの態度に、私たち観客は腹が立ってくるが、我慢しなければならない。町の与太者じみた父ヴィンフリートの存在に免じて、私たち観客も怒りのほこを収める。怒りのほこを収めるのは娘も同じなのだが。


 このほこを収めるという状況のにがさを私たち観客はすでに、小津安二郎によって、『一人息子』(1936)の飯田蝶子によって、『東京物語』(1953)の笠智衆によって、じゅうぶんに知っている。子どもの行く末を心配し、大人になってつまらない人間になった自分の子どもに失望しつつも、曖昧な微笑と共にやり過ごすという解決法を、飯田蝶子も笠智衆も、体得しなければならなかった。


 『東京物語』の山田洋次監督によるリメイク『東京家族』(2012)では、父親役の橋爪功が“もう二度と東京になんぞ来ないぞ”なんて子どもたちに怒りをぶちまける。山田洋次としては“現代にふさわしく本音で行こうや”という意図で一歩踏み出した演出のつもりだったのだろうが、はっきり言わせてもらうと、あの橋爪功の一言で悲しみも、怒りも、味も素っ気もなくなってしまった。怒りは、ほこに収めたままの方が、怒りのもとから発する匂いが保たれたはずなのだが——。


 『ありがとう、トニ・エルドマン』の上映時間はなんと162分もあるのだが、娘イネスのビジネス最前線に、父親ヴィンフリートが首を突っ込んで、変な冗談で場を白けさせたり、天然パーマのカツラと出っ歯の入れ歯をはめ、スーツを着込んで奇怪な弟トニ・エルドマンに変装し、場を混ぜっ返したりする、それだけで162分という短くはない時間が消費されてゆく。素晴らしいではないか。このムダな時間の蕩尽ぶりにシビれるほかはない。


 娘も娘で、イライラしているわりには、奇怪な異物のぶしつけな闖入を完全拒否したりはせず、イライラしつつも寛容な人物像を演じ続ける。周囲のビジネスパーソンたちも、トニ・エルドマンにあからさまな立ち入り禁止を命じたたりはしない。彼らは困惑した曖昧な苦笑と共に、事態を平和的にやり過ごそうとする。それが現代社会というものだろう。差別主義者や、不寛容な常識人といったレッテルを張られたくはないのだ。


 神出鬼没のトニ・エルドマンは、娘のビジネス現場に現れ、パーティ会場に現れて、おサムい冗談を飛ばして場を白けさせる。さしずめ『底抜け大学教授』(1962)におけるジェリー・ルイス(ケンプ教授=バディ・ラヴ氏)と、ジャン・ルノワール監督『素晴らしき放浪者』(1932)におけるミシェル・シモン(ブーデュ氏)の中間ぐらいの飄逸さを、父親ヴィンフリート氏はねらっているものと推測される。まったくもって悪い冗談だが、都市のすきまの中で、なぜか立ち入り禁止とならずに、平気な顔であたりに偏在している。


 娘イネスがルーマニアでやっているコンサルティング業務は、どうやら経営合理化の手助けであり、ようするにレイオフの汚れ役を買って出るかわりに、たんまりとコンサル料をせしめようと画策している。イネスの姿に、現代ドイツという国のありようを象徴的に見て取るのはたやすい。EUの拡大によって東欧の端っこにあるルーマニアまでがEU経済圏に統合され、ポスト資本主義になじまない昔ながらの労働者は、容赦なくクビになる。ドイツはEUの盟主として、“もっとまじめに経済運営しろ”と現地法人を叱咤激励しつつ、近隣諸国を恫喝し、また搾取して回る。わざわざ戦争で血を流して領土を割譲されるよりも、もっとうまみのある他国支配を発明したのだ。ドイツのライバルはアメリカと中国である。日本なんて国は20世紀の遺物に過ぎず、かつての“エコノミック・アニマル”はもうお呼びではない。


 こんなシーンがあった。合理化を進めようとしている旧国営企業の石油プラントの視察に出かけたイネス(と、なぜかトニ・エルドマン氏も同行している)が、現場主任によってクビを申し渡された労働者について“私たちが手を汚す手間が省けた”と口走ったことに対して、トニ・エルドマン氏がひどく狼狽するのである。そもそもの原因はトニ・エルドマン氏にあったようにも思える。視察中に便意をもよおしたトニ・エルドマン氏が、ふらふらとコースを外れて、石油プラントの坂下にある労働者の自宅でトイレを借りたことで、なにか誤解と手違いが生じたような展開である。


 父ヴィンフリート=トニ・エルドマン氏が、娘の前でバカを演じるのは、娘に非人道的な労働環境から足を洗うように、説得するためであろうか。まあ実際はそんなところだろうが、それが分かったところで、この映画の魅力はそんな納得の風土をどこまでも拒否している点にある。一歩間違えたら、逸脱の血を引く娘も第2のトニ・エルドマンにいつなんどき変貌するかどうか、予断を許さない。ブルガリアの伝統的な厄除け衣裳(毛むくじゃらのナマハゲみたいなもの)と、全裸という組み合わせ。極と極が相対したとき、この映画で最も父娘が接近する。


 親子であっても兄弟であっても、違うものは違う、ということだ。もちろん他人同士にしろ、違うものは違う。このにがい認識のもとで、それでも人生は続く。父ヴィンフリート=トニ・エルドマン氏は、1960年代に青春期を過ごし、精神的にはジョン・アーヴィング世代と言ってしまえるのだろう。トニ・エルドマン氏はアーヴィングの小説の登場人物によく似ている。コンサルティングに邁進する娘に、コンサルトしてもらうために、彼は永遠に娘を困らせるだろう。娘も迷惑顔をあからさまに浮かべつつ、困惑し続ける。


 娘イネスが孕み持つ、内なる〈トニ・エルドマン性〉がいつ、いかなる形で首をもたげてくるのか。それは映画のそこかしこに徴(しるし)がついていた。観客がその微細な変化に気づくかどうか。“信管を外すのが楽しみで仕方がない”と、映画の冒頭で宅配便の青年相手にトニがうそぶいた台詞は、永遠に有効である。永遠にわくわくするために、むしろイネスは体よくほこを収めつつ、「信管処女」を気取っているだけなのかもしれない。ドイツ映画界にまだこんな異形の傑作を生ませるだけの度量が残っていたのか、とビックリしたのが正直なところで、その認識不足をどうか謝らせていただきたい。(荻野洋一)