トップへ

鬼束ちひろは、本当の意味で復活を果たしたーーライブから伝わる“歌表現者”としての真価

2017年06月21日 17:33  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 2016年11月4日。自分はこの日を忘れないだろう。


 それは鬼束ちひろが東京・中野サンプラザホールで圧巻のパフォーマンスを見せた日だ。“圧巻の”とはどういうことかというと、つまり鬼束ちひろというシンガーソングライターのキャリア、鬼束ちひろという物語においての最も優れたところ、核となるところを、限りなく100%に近い状態で見せたものだったということ。彼女が真の“歌表現者”として我々の前に「戻ってきた」のが、この2016年11月4日だったということだ。


 そのことをきちんと報じたメディアは、しかし自分が探した限りではどこにもなかった。少し失望したが、やはり迷走の時期が長かったこともあって、評価の俎上に乗っていなかったということなのだろう。会場に集まった多くの人たちは、良好な状態にあるときの鬼束ちひろがどれほど凄まじい表現力を持った歌手であるかを知っている。だからそこに来ていたわけだが、世間一般的にはそれを知らない人(もしくは忘れている人)が大半だ。活動のあり方と表現のあり方、及び声の出方が安定を失ってからずいぶん長い時間が流れていたので、まあ無理もない。無理もないがしかし、遂に叶った鬼束ちひろの本当の意味での復活は、言うなればひとつの事件であり、もっときちんと世に伝えられるべきことだと、自分はそう思ったものだ。


 良好な状態にあるときの彼女の歌表現がどれほど圧倒的でどれほど胸に迫りくるものであるか、それを実際に体感したことのない人に言葉で伝えるのはなかなか難しいが、昨年12月の『FNS歌謡祭』(フジテレビ系)で、(テレビ番組においては)12年ぶりに「月光」が歌われた際、その鬼気迫るパフォーマンスに対する驚きの声はけっこうな数でツイートされた。「めっちゃ震えた」「すっげえ鳥肌たった」「涙出た」といったものだ。自分はそのパフォーマンスと人々の感想ツイートを見ながら、約1カ月前に中野サンプラザホールで復活を遂げた様を目撃したひとりとして、または彼女が真価を発揮した際の歌唱表現の凄まじさを昔から知る者として、何やら誇らしい気持ちにもなったものだ。同時に、ライブはこんなもんじゃないよ、と言いたくもなった。『FNS歌謡祭』を見た人々のそれは、言わばそのインパクトに対する反応だ。が、ライブは当たり前だが1曲ではなく、例えば中野サンプラザの場合は全17曲。次々に曲が演奏されるその過程で徐々にボーカルが熱と艶を帯びていくことの興奮と、曲が連なることで起こる総体としての感動がそこにある。それを伝えるものとして、6月21日にリリースされるキャリア初のライブアルバム『Tiny Screams』はうってつけだ。


 自分はもうずいぶん長いこと、鬼束ちひろのライブを観ていなかった。特に奇抜な厚塗りメイクで極端な発言をしていた時期などは声の出もピッチもそれ以外も全てがあまりに不安定で、たまたまテレビ番組か何かで見たときは辛い気持ちになっただけだった。かつてのファンの多くがそうだったはずだ。が、昨年4月の日本橋三井ホール公演を観たある方が「(ほぼ)完全復活」とツイートしていて、その言葉に賭けて11月の中野サンプラザホール公演のチケットを購入した。


 ものすごく感動するか、ものすごくガッカリするか、ふたつにひとつだろうと覚悟はしていった。これまで観た鬼束ちひろのライブはそのどちらかしかなかったからだ。波があって当たり前。作品もそうだが、それ以上にナマモノであるライブはいいときとそうじゃないときの差が極端で、10点のときもあれば1000点のときもある。が、いいときの凄さは昔から破格だった。思い出されるのはなんといっても2002年の日本武道館公演。それは数カ月間の休養を経たあとの復活ライブだったが、大胆にもその時点でまだリリース前だった3rdアルバム『Sugar High』からの曲を中心に構成されたものだった。しかしそれが圧倒的に素晴らしく、自分は終演後、放心状態でしばらく席を立てなかった。恐ろしいほどの集中力で歌に入り込んでいた彼女は、まるで何かが憑依しているようでもあった。そのあとに取材した際、彼女は「ステージに竜がいるみたいだったって友達から言われた」と笑っていたものだが、確かにそんな感じだった。


 11月の中野サンプラザ公演の話に戻すと、開演前の会場の雰囲気は一種独特だった。果たして今夜の鬼束ちひろの状態はどうなのか。声はどのくらい出るのか。復活と呼べるステージになるのかどうなのか。自分を含め、そんなふうにある種の緊張を持ちながら開演を待っている人が多いように感じられた。


 驚いたことにそのライブは3枚目のシングル曲「Cage」で始まった。〈誰か言って 激しく揺さぶって “もう失うものなどない”と〉という歌詞の一節が突き刺さり、その曲をオープナーに選んだ彼女の思いを考えたりしながら聴いた。バンドは、ピアノ、チェロ、パーカッションというミニマルな編成。必要にして十分。やはり鬼束ちひろの歌と声の特性に何より合っている楽器がピアノとチェロであることを改めて思った。彼女の全盛期と言える東芝EMI時代(2000~2003年)の代表曲ばかりでなく、その後のさまざまな時期の重要曲が演奏された。そして肝心のボーカル。始めの頃はまだ多少ピッチの揺れがあったがしかし、声の出力は驚くほどで、かつてのレベルにかなり近いくらいまで戻っていた。ある時期の彼女はまるきり声の力が弱まってピッチも定まらないという状態にあり、つまりまともに歌えていなかったわけだが、それと比べたらまるきり別人。よくぞここまで戻ったなと、そう思った。


 MCはもちろん最後まで一切なし。曲が進むごとに彼女の歌声は艶を帯び、出力も増していった。集中力というか、歌への入り込み方がどんどん増していくのが感じられた。まさしく全身全霊。わけても終盤の4曲……「蛍」「流星群」「good bye my love」「月光」の流れにおける歌表現は胸に迫るものがあった。〈叫ぶ声はいつだって 悲しみに変わるだけ こんなにも醜い私をこんなにも証明するだけ でも必要として〉。大名曲である「流星群」のその一節が、これまでと現在の彼女のありように重なり、自分は落涙した。


 その2016年11月4日の中野サンプラザホールで歌われた全17曲に、2016年7月の大阪サンケイホールブリーゼで収録された(中野サンプラザでは歌われなかった)5曲を加え、2枚組全22曲のライブアルバムとしてまとめられたのが、『Tiny Screams』だ。2月にリリースされたスタジオ録音によるオリジナル新作『シンドローム』の初回限定盤にもその2公演からセレクトされた10曲のライブ音源がボーナスディスクとして付いていて、それはファンの間で「鬼束ちひろ、過去最高のライブ音源」と大きな評判を呼んで発売後まもなく各地で品切れ状態となったそうだが、今回の『Tiny Screams』はそのことを受けての拡大版正式リリースというわけである(加えて4曲のライブ映像ほかを収録したDVDもパッケージされている)。


 曲順は中野サンプラザ公演の通りではなく、大きく変えられている。例えば中野サンプラザでは最後に歌われた「月光」が、このライブ盤ではDisc1の1曲目。Disc2の終盤は最新作『シンドローム』に収録された「碧の方舟」と「good bye my love」が、花岡なつみに提供した「夏の罪」のセルフカバー(シングル『good bye my love』にカップリングで収録)を挿む形で、つまり現在の鬼束ちひろをわかりやすく伝える終わり方になっている。この3曲の歌唱と流れがとりわけ素晴らしく、聴き終えたあとに深い余韻が残る。


 東芝EMI時代の名曲群から、2007~2009年あたりの佳曲・代表曲、そして今年の新作収録曲まで。初のライブアルバムであると同時に、これは全キャリアにおいてのベストアルバム的な内容で、しかも余分な音が一切鳴らされていないベストテイクばかり。昔からのファンだけでなく、しばらく離れていた人もこれは聴くべきだし、まだちゃんと鬼束ちひろの音楽と出会ってないという人には初めの1枚としてすすめたい、そういうアルバムだ。


 自分が鬼束ちひろに取材した最後は2007年(シングル『everyhome』のリリース時)で、それ以来会っていない。が、今年2月に6年ぶりの新作『シンドローム』を発表した際、音楽ナタリーにインタビューが掲載され、それが現在の彼女のモードをよく表していて、いくつかの発言になんだかグっときてしまった(インタビュアーは大山卓也さん)。そのなかで彼女はこんなことを言っていた。


「今は自分をガンガン出すっていうより、みんなが求めている鬼束ちひろ像に応えるということをすごく重視してます」


「ファンの人たちはどんな鬼束ちひろが好きなんだろうって、そっちのほうが大事だなって思いました」


「鍛えていって、もっと身体を楽器みたいに鳴らしたいんです」


 鬼束ちひろが遂にこの境地に立てたというそのことが、自分にはとても感慨深かったし、嬉しかった。ずいぶん長い時間がかかったけど、彼女はもう大丈夫だろう。


 現在、鬼束ちひろは15年ぶりの全国ツアー『シンドローム』を4月から行なっており、評判は上々。7月12日には再び中野サンプラザホールのステージにも立つ。今の彼女が最良の状態にあることは間違いない。昨年11月の公演からのさらなる進化(深化)に期待したい。(文=内本順一)