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上戸彩VS伊藤歩、狂気の対決に戦慄! 地獄へ堕ちる不倫映画『昼顔』が観客の心をえぐる理由

2017年06月16日 06:03  リアルサウンド

リアルサウンド

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 涙目になりながら手で口を抑え、ただ震えてスクリーンを見守るしかないほど、おそろしい映画だ。2014年に放送された、不倫を題材にした人気TVドラマ『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』の続編となる映画『昼顔』は、よくある「TVドラマ映画」のレベルをはるかに逸脱し、観客を戦慄させる必見の日本映画である。


参考:上戸彩は“崖っぷちのヒロイン”でこそ輝く 『昼顔』で見せた映画的な資質


 不倫恋愛物語が、やがて泥沼の悲劇になっていくところまではTVドラマ版と同じ内容だ。しかしこの映画版では、そこから何段階もの新しい境地に突入し、観客に未体験のおそろしい感覚を味わわせてくれる。ここでは、そんな本作の凄さを徹底的に解説していきたい。


■不倫劇に求められるのは人間の「狂気」である


 TVドラマ版の第1話は、上戸彩が演じる「平凡な」若い主婦、紗和(さわ)が、マンションの高層階のベランダから、今まさに遠くで燃え盛っている火事の現場を、棒アイスをくわえながら眺めているシーンから始まる。まさに「対岸の火事」、「高みの見物」である。この火事は不倫による家庭の不和が原因だということが後に分かるが、その火事場を見つめている彼女は、いつか自分自身が、この地獄の業火に焼かれ、身を焦がすことになるのを、まだ知らない。


 このオープニング・シーンは、恋愛のこわさや残酷さを描くことを得意とした、日本を代表する映画監督・溝口健二による、近松門左衛門の浄瑠璃をベースとした時代劇『近松物語』(1954)の一場面に似ている。不義密通を犯した男女が、市中のさらし者になりながら、死刑場に運ばれていく。名家の若妻は、その様子を家の中から眺めながら、「あんなあさましい目に遭うくらいなら、その前に死んだ方がましね」という意味のセリフを吐く。しかし彼女はこの後、同じように不義密通の罪によって、やはりさらし者となり処刑されるという展開になる。しかし意外にも、市中を引き回される彼女の顔は、恥にまみれた表情ではなく、明るく晴れ晴れとしているのである。つまり彼女は不倫という経験を通して、以前とは全く異なる人間になっているのだ。


 ドラマ版『昼顔』で紗和を不倫の道へといざなう、吉瀬美智子が演じる主婦は、「不倫は究極の恋愛のかたちよ」と言っていた。それは、このように社会の規範を逸脱し死の恐怖をも超えた狂気と、しかし同時に純真さをも帯びた精神性を指しているはずである。三島由紀夫の小説『美徳のよろめき』や、TVドラマ『金曜日の妻たちへ』など、それぞれの時代で「不倫もの」は流行しているが、その源流には、庶民の男女の心中事件を題材とし、愛のために死に向かっていく人間の瀬戸際の狂気を描いた、近松門左衛門による浄瑠璃の世界がある。観客が見たいのは、自分自身は足を踏み入れることを躊躇するような背徳の世界と、その果てにある狂気の姿なのである。なぜなら観客自身の心の中にも、その狂気が、程度の差こそあれ存在するはずだからである。


■女同士の宿命の対決は衝撃の展開へ


 ドラマ版『昼顔』の盛り上がる箇所というのが、景気のいいギターサウンドで不倫に突入していく「イケイケモード」と、シリアスなコーラス曲が流れ、紗和がナレーションで神様に懺悔する「反省モード」という、交互に繰り返される、不倫における裏表の表現であったように、その続編となる本作、映画版『昼顔』でも、その始まりは意外なほどお気楽にラブコメ調の恋愛表現をともなって描かれていく。


 だが本作では、そんな「イケイケモード」の無邪気さを何十倍も超える地獄へと突入する展開となる。同じように、愛欲の果てにある地獄を描いた『嘆きの天使』(1930)というドイツ映画があるが、軽いラブコメとしてスタートしながら、最終的には目を背けたくなるような修羅場が展開するという点で、本作の構造はそれに近い。意図的に大きな落差を作り出すことによって、観客の心理を翻弄させるというテクニックである。


 ダブル不倫が発覚し、数々の修羅場を経て不倫相手・北野との関係が終結し、夫や友人たちを失って孤独になるという、社会的に「大敗北」したドラマ版の結末を受けて、映画版の紗和は、当初は抜け殻のようになっている。だが新しく移り住んだ海辺の田舎町に偶然、北野が訪れて講演会に出演するということを知ると、彼女は俄然生き生きとし始め、復縁のきっかけをつかむために奔走を始める。


 本作で北野が研究している、ホタルの求愛テクニックに重ねられているのが、紗和の駆け引きのスキルである。彼女は巧妙に「自分のせいではない」状況を作り出し、男を追いかけさせるという、オスを引き込むメスとしての本能的な才能を持っているのだ。純真な北野の関心を惹き、ついには虜にしてしまうことなど簡単である。


 そんな紗和に対し、伊藤歩演じる、北野の妻・乃里子もまた、浮気を見破る天性の才能を持っている「人間レーダー」のような女である。ドラマ版でも、夫の不審な点に気づき、早々に不倫の証拠を集めたように、今回も夫の微妙な変化を見逃さず、信じがたいスピードで不倫を突き止めるという、神速の対応を見せる。


 だが今回はドラマ版のリベンジ戦でもある。いまや独り身になり、家族も友人もなく、失うものなど何もなくなった紗和の、狂気を帯びた捨て身の力は絶大だ。北野は彼自身、何故彼女に惹かれるのか「分からない」と述べるように、寄生虫に操られ行動を支配された哀れな昆虫のように、紗和の願望通りになすがまま操られていくのだ。


 しかし、狂気には狂気。そんななりふり構わなくなった紗和に対抗するため、乃里子もさらなる狂気へと突入する。愛する男のためにどこまで狂うことができるのか。龍と虎、武田信玄と上杉謙信のように、対決を宿命づけられた彼女たちの勝負は、当事者である北野の存在感を希薄にするほど激しさを増していく。最後の最後まで攻守が入れ替わり、勝敗の行方が混迷する、女の勝負がどう決着するのか。その結果はぜひ劇場で確かめてもらいたい。


■『昼顔』は、なぜ観客の心をえぐるのか


 二人が直接会話する、キッチンでのシーンは圧巻である。夫の気持ちが紗和に傾き、全てを失いつつある乃里子の手がすぐ届くところに、庖丁が収納されているのだ。ものの数秒もあれば、ホルダーから庖丁を抜き払い、乃里子は紗和の心の臓を刺しえぐり取ることが可能なのである。そんな状況で画面に包丁が映ったまま会話する光景は、身震いのするサスペンスとして機能しており、見事だ。


 本作を監督したのは、ドラマ版でもメインのエピソードを演出していた西谷弘監督である。TVドラマに軸足を置きながら、『アンダルシア 女神の報復』や『真夏の方程式』など近年の監督作に見られる、理由は分からないが何故か「覚醒しちゃっている」としかいえない、映像への鋭敏な感性と確かな演出力によって、映画マニアや批評家の間で、とくに話題になっている稀有な才能だ。とくに本作では、クライマックスのシーンにおける、闇と光の演出によって、その本領を感じることができる。


 不倫によって家庭を破壊する、紗和の行為に反発を覚える観客もいるだろう。だが本作は、そのクライマックスによって、彼女を応援せざるを得ない状況を作り出してしまう。そこにあるのは、不倫や争いという行為を、人間が本来持っている業(ごう)として、昆虫や生き物が本能によって突き動かされるように、「生きる」という最も普遍的な行動に連結させることに成功しているからである。


 作家・坂口安吾は、戦後発表した『堕落論』および『続堕落論』のなかで、日本が戦争に突入するという、間違った道を歩んでしまった要因のひとつとして、権威や世間の常識に盲従して生きる日本人の性格があると述べた。日本人の持つ道徳や固定観念が、逆に人間性を殺し、全体主義の方向へと向かわせたというのである。だからこれからの日本人は、自らを縛る道徳心を捨て、すすんで「堕落しろ」と述べたのだ。


「堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。道義頽廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落して、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。」(『続堕落論』)


 『近松物語』で死に向かいながら微笑む女性も、本作で暗闇に突き落とされる紗和も、不道徳な道に進みながら、しかしそこから真実の「生きる実感」に到達するのである。かつて紗和が棒アイスをくわえながら下界を眺めたように、不倫劇を鑑賞している我々観客に対して、寿命の少ないホタルが束の間の命の光を暗闇に灯しているような、彼女が見せる凄絶な姿は、我々に「あなたは本当に生きているのか?」と訴えかけてくる。それが本作の真におそろしいところである。(小野寺系)