トップへ

サエキけんぞうの『ドント・ルック・バック』『ボブ・ディラン/我が道は変る~1961-1965フォークの時代~』評

2017年06月10日 14:03  リアルサウンド

リアルサウンド

 ボブ・ディランについての重要ドキュメンタリー2作が一気に公開になった。両作品とも、1960年代前半の黎明期のディランについて扱った作品である。ディランがなぜノーベル賞にまで昇りつめたか? その創作の秘密とはなにか? どのように凄いスターであったか? それらが氷解する2作。フォークで成り上がり、ロックスターとなる変わり目まで。そこを理解することでディランの全てがわかるといって過言でない。ここでは、今までファンも知らなかった知見も含むだろうレビューをお届けしよう。


参考:サエキけんぞうの『SING/シング』評:流行音楽を蘇生させるパワーがここにはある


 まず、ディラン自身が制作に参加したといっていい1965年製作のドキュメント『ドント・ルック・バック』がデジタル・リマスターで蘇った。1965年当時、ドキュメントフィルムは極めて珍しかった。当初、配給会社に相手にされなかったこの作品は、ポルノを手がける会社がクリーンなイメージの作品をやりたいと拾い、ニューヨークで公開すると大ヒットとなった。


 1965年4月26日から始まったディラン英国ツアーの様子が収められている。1965年、ビートルズがポップ・スターなら、「風に吹かれて」が世界的ヒットとなったディランはカウンター・カルチャーのトップだった。冒頭、ディランがロンドン空港に到着、ファン達は“ビートルズがニューヨークに現れたような騒ぎ”を繰り広げている。1965年の英国では、知識層はもちろん、ミーハー少女も十分ディランに入れあげていた。彼はその熱気を受け、ギリシャ神アポロンのような美しい容姿となっている。その姿を愛でる、この作品を味わう最大の醍醐味だ。


 トップスターが、気さくに楽屋やホテルを開放し自由に交流する。この時代で、しかもディランだったからだろう。極めて珍しい映像。ドノヴァン、アニマルズを脱退したばかりのアラン・プライス(キーボード)、マリアンヌ・フェイスフル。アラン・プライスとのセッションも見物だが、ポップスファン的には、当時大ライバルに上昇したドノヴァンが見物。先輩ディランに対しての腰の低いたたずまいが何とも印象的だ。ディランもドノヴァンに対し慎重に距離を取る。やらせではない、本物の「現場」である緊迫感がたまらない。


 コンサートの直前には、科学を学ぶ学生がディランに強くからんできて、哲学的な言い争いをする。その学生はテリー・エリスといい、後に ジェスロ・タル、プロコル・ハルム、スペシャルズを配したクリサリス・レコードの設立者となった。そんな画面から、激動の時代の「動きのオーラ」が漂っている。


 映画のラストでは、英国ツアーのクライマックスであるロイヤル・アルバート・ホールでの「時代は変わる」「イッツ・オール・ライト・マ」などの油の乗りきった演奏が見られるが、さらに貴重なのは、ホテルの部屋で歌うプライヴェートな歌声群だ。前述したドノヴァンに向かって語りかけるように歌う「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」や、恋人だったジョーン・バエズとのデュエット「ロング・ブラック・ヴェイル」は大変に貴重なシーンといえよう。ディランは相手により、大きく表情を変える。


 ジョーン・バエズといえば、ディランをスターに引き上げた恩人のミューズだ。バエズは62年末頃から、ディランと交際関係にあった。ディランに寄りそう姿をアラレもなく見せる。彼女はディランと組んで10都市を回った。ディランと同乗した車で、サンドイッチやバナナを食べまくる。しかし、映画後半でフェイドアウトし、いなくなる。どうもこのタイミングで交際も終わったようだ。実はこのツアー後半にディランは正妻サラ・サウンズ(76年「欲望」収録曲「サラ」のモデル)とパリで落ち合い、一週間のポルトガル旅行に行っていたのだ。


 一方で、ディランは次に解説する新作ドキュメント『ボブ・ディラン/我が道は変る~1961-1965フォークの時代~』でも大々的にフューチャーされる恋人スージー・ロトロ(ブレイク第二作「フリー・ホイーリン」ジャケットの女性)とも61年末から63年にかけて交際している。ここではサラと二股だ。そんなことを気にせず、バエズを画面に登場させるディランの感覚がカッコいい!こうしたプライヴェート感覚に満ちたドキュメント映画は、ビートルズにもないし、こんなやり方が通用したのもまだ全てが激動してる60年代だからだ。そうしたメンツから発散される65年のテンションはフォークというより、もはやロックの宴だ。


 この映画の冒頭は、クリップで始まる。65年3月発売のロック化したアルバム「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」収録でシングル先行発売した「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」だ。「ジョニーは地下室で麻薬の調合をする」という衝撃的歌詞で始まり、もはや「お利口さん達のリーダー」ではなく品の悪い奴らと付き合いエレキを鳴らすロック・ヒーローに変わる宣言だ。画面の左側に立つビートニクの詩人アレン・ギンズバーグが、その象徴となる。フォークの英雄に登り詰めるディランが、65年にはロックへの激変を迎える、そんな変遷を、驚きの証言を多数含んで描いたのが新作ドキュメント『ボブ・ディラン/我が道は変る ~1961-1965 フォークの時代~』だ。


 この映画は、ヴェールに包まれているディランのスターに登り詰めるまでの姿、知られざる苦悩について解き明かした凄い作品だ。どのように作品を研ぎ澄ましたのか? どのような態度で人と接していたのか? はたまた、ノーベル賞に値する作品性はどこに存するのか? といった深い問いにも答える力作となっている。


 アメリカの民衆音楽がいかに多様な要素を伝承していたかの説明から始まる冒頭は、すべてのロックファン必見だ。それらの伝承が消滅してしまう危機感から、識者がレコードによる記録を始めたことからフォーク・ムーブメントが起こった。政治運動ともからみあったフォークの動きについて、20世紀前半の米国の豊潤な映像群を絡めての描写が素晴らしい。レッドベリー、ピート・シーガーなど、ディランが学んだ先達の役割が分かりやすく説かれ、最も影響を受けたウディ・ガスリーからどのようなバックアップを受け取ったか? スターが生まれていく時の経路のあり方についても、詳細に解説されている。


 ディランが属したフォーク運動は、先述した先達の1940年代の動きに続く、第二次フォーク・ムーブメントということだ。実はリヴァイヴァルだった、という情報も新鮮だ。1958年にエルヴィスに始まるロックンロールの熱気が一段落することにより、それは始まった。ロックンロールにも強く影響を受けたディランは、当初、先達のフォーク・ソングのカバーを歌っていた。当時のニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジは、フォークの熱気を核に多くの若者が集まり「遊園地」と化していたという。そんな様子は何となく知ってはいたが、見たこともない貴重映像で、コーヒーハウスなどのライブカフェの営業状態が見られるのも嬉しい。ギャラなし、投げ銭でフォーク歌手が歌うリアルな姿が切り取られていて、抜き差しならない状況からリアリスト、ディランが頭をもたげてくる、という説得力がハンパない。


 解説を担当するのは70年代のシンガー・ソング・ライター・ブームをにぎわしたマリア・マルダー、エリック・アンダースン、トム・パクストンといったアーティストと、ディラン研究の権威たち。70年代アメリカ音楽ファンにおなじみのマリアもエリックも、60年代初頭からシーンにいたのだ。彼らの間近な視線で描くディラン像を中心に、当時のドラスティックな状況について、精彩な記憶で語られる。


 驚きは、英国のフォーク歌手マーティン・カーシーのインタビューだ。カーシーは、ペンタングル、フェアポート・コンベンション等英国トラッド系に深い影響を与えた人物。ポール・サイモンは1964年、カーシーのアレンジした「スカボローフェア」に深く感銘を受け、その編曲を買い取ることによりサイモン&ガーファンクルの大ヒットとしたキーパーソンである。そのカーシーの証言では、ディランは1962年12月に英国に長期滞在し、カーシーを含む沢山の英国フォーク歌手達と非常に深く交流したという。大ブレイク作「フリー・ホイーリン」を制作中の頃だ。この英国勢からの刺激が、その後のディランの大成功を生んだといっても過言でない。「北国の少女」はこの交流から生まれた。


 他にも政治運動に深く傾倒していた恋人スージー・ロトロからどのようなインスパイアを受けたか、またジョーン・バエズからはどのような寵愛を受けたか?など、音楽を絡めて映画ならではの説明で語られる。


 戦慄を覚えるのは、1963年ディランに届いたケネディ大統領暗殺のニュース。確かに、ディランはケネディ、キング牧師に続く、第三の大物犠牲者となる可能性があった。それを体感できる状況が描かれる。1964年以後、ディランは急カーヴを描いてロックに接近していくわけだが、そこにもきっかけがあった。時代の距離感を改めて知らされる。


 ディランは巨大だ。背景を知れば知るほど、楽曲の素晴らしさが耳に新たな感慨を生んでいく。ディランを知る上で、そしてロックを一生の楽しみにしていく上で、必ず役にたつ、ドキュメント2本だ。(サエキけんぞう)