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『20センチュリー・ウーマン』の“言語化しにくい”魅力 マイク・ミルズ監督に受け継がれた精神

2017年06月10日 10:03  リアルサウンド

リアルサウンド

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 天井の火災警報器を眺めて美しさを見出すような繊細な感性や、Tシャツに洗濯機のイラストをプリントするような創造的人格は、どのようにして生まれるのか。映画監督マイク・ミルズが、自身がティーンだった時代を振り返り、自分の母親との関係を、当時の風合いを感じさせる郷愁的な映像で描いた『20センチュリー・ウーマン』は、グラフィック・デザインやCM撮影など、映画を撮る以前にも多岐にわたる視覚的なクリエイションに携わってきた、マイク・ミルズという人間の内面を解き明かす作品ともなっていた。


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 だが、本作を気に入った観客であっても、その良さを「言語化しにくい」という声を聞くことが多い。ここでは、そんな『20センチュリー・ウーマン』が描いた内容を、分かりやすく解説していきたい。


 ロサンゼルスから北西に向かって、映画を一本観ることのできるくらいの時間、車を走らせた場所に、アメリカで最も美しいといわれるビーチを持つ観光都市、サンタバーバラがある。本作『20センチュリー・ウーマン』は、監督が多感な15歳を過ごした、1979年のサンタバーバラが舞台になっており、美しい風景や輝く陽光、当時のカルチャーが、マイク・ミルズらしく、壁に描かれるグラフィティのようなポップでマットな質感の映像で楽しめる。


 監督の母親のイメージを託す、シングルマザーのドロシアを演じるのは、『グリフターズ/詐欺師たち』や、『アメリカン・ビューティー』などで、セクシーな魅力と確かな演技で評価されるアネット・ベニングである。


 まず描かれるのは、息子ジェイミーが学校で問題を起こして教師に呼び出されても、一貫してジェイミーの側に立って、むしろ学校側の態度を問題視するドロシアの姿だ。親の筆跡を真似て学校にズル休みの手紙を提出するというジェイミーの不正を目にしても、「書類の偽造は良くない」と諭しながらも、「よく考えたわね」と成長を喜ぶ、よく言えば肯定的で愛情深く、悪く言えばユルい親であったことが分かる。


 その根底には、彼女が片親であるということから、息子に対して十分なしつけや教育が出来ないのではないかという、不安と罪悪感があった。そこでドロシアは、ジェイミーの幼なじみの少女ジュリー(エル・ファニング)と、ルームシェアをしている写真家の女性アビー(グレタ・ガーウィグ)の二人に、多感な時期の息子を真っ当に育てるべく協力してほしいと依頼する。後に息子のジェイミーは、「彼女は大恐慌時代に生まれた人だから。当時は近所で協力し合って子どもを育てていたらしい」と、奇妙な依頼に困惑するジュリーに説明する。


 ともあれここから、二人の女による、ジェイミーを「理想の男」に作り上げるゲームがスタートする。性に奔放なジュリーは、女心の複雑さと不可解さ、煙草の吸い方など現代的な男の所作を教え、パンクロックの音楽やファッションにイカレれているアビーは、好きなものを追求する生き方やフェミニズムについてエデュケートする。だが二人の教育はときにエスカレートし、性行為の体験談や、女性をオーガズムへと至らせる方法などまで教え始め、ドロシアをあたふたさせることになる。


 クリエイティヴな業界で何かを成し遂げようと、アーティスティックな存在であろうとするアビーを演じるのは、『フランシス・ハ』の主演で鮮烈な印象を残し、自身もクリエイターとして活動する俳優、グレタ・ガーウィグだ。アビーは、「自分の持ち物を撮ることで、私という人間が見えてくる」と、身の回りのアイテムを一つずつ写した写真の連作に着手していた。面白いのは、その手法はそのまま、本作でドロシアが愛した持ち物を一つずつ紹介するというかたちで、そのまま使われているという点である。これは、前作『人生はビギナーズ』でも使われていた演出だ。これが本当にあった出来事なのかは分からないが、ここで示されているのは、表現というのは、その人が表現をすることを仮にやめたとしても、他人がそれを受け継ぐことが可能だということである。彼女自身は写真の道で成功することはなかったのかもしれないが、彼女の試みそのものは、映画というアートのなかで甦ることになったのだ。


 それにしても、ドロシアはなぜ、ロールモデルになりそうな大人の男ではなく、この二人に息子の教育を頼んだのか。本編を追っていくと、そこにはドロシアの、男性に対する不信感があったことが分かってくる。本作には、当時大統領に就任していたジミー・カーターのTV演説を大勢で見ているシーンがある。ジミー・カーターは、外交が弱腰であるとして「強いアメリカ」を打ち出せずに、いまでも歴代のなかで人気のない大統領であるが、それでも大統領としては内省的過ぎる彼の演説を聞いた彼女は「美しいと思うわ」と感想を述べた。ドロシアは、粗野でユーモアが分からず、女性を尊重しない「強い男」よりも、繊細な心情を理解し、女性を労わることのできる「弱い男」を評価するのだ。しかし自分が弱い男であることを正直に人に見せるというのは、自分の強さを無理に誇示しようとはしない、本当の意味での「強い男」の態度であるといえるかもしれない。


 映画『カサブランカ』で使われた楽曲「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」(時の過ぎ行くままに)が、本作のアイコンとして何度も流れるように、彼女が理想としたのが、往年の映画スター、ハンフリー・ボガートが演じたイメージである。『カサブランカ』の主人公リックは、イングリッド・バーグマン演じる、愛する女性のために、自分の愛を犠牲にして助けようとする優しさを持っている。ドロシアは、自分の心を本当に理解して支えてくれる優しい男性を求め、息子にもそのような男になってほしいと願っていたのだ。


 その意味において、ジェイミーは同年代の少年たちに「いけすかねえ軟弱野郎だ」と罵倒されながらも、ドロシアの理想通り、女性に対する優しさと、繊細な感情を大事にする男に育っていくのである。ジェイミーは、最愛のジュリーと初体験を済ませようとドライブに出かけるが、拒絶されると、夜通し徘徊して気持ちを静めようとする。ジェイミーは、彼女がいままで付き合ってきたような、彼女の意志に反して避妊をしないような自分勝手な男とは、わけが違うのである。ジェイミーは、なし崩しに欲望を発散させるのではなく、それがときに報われない道であることも十分に理解しながら、自分の倫理観に従い、女性の気持ちを尊重できる「強い男」へと成長したのだ。


 本作が描いたのは、「人はこの世を去っても、その一部は生き続ける」という事実である。母親の理想や人間性は、息子という人間をかたちづくる。本作で主人公の教育係を務めたジュリーとアビーというかたちで描かれた、他人からの影響もまた、アートへの態度や反骨精神、音楽センスなど、いろいろな面で有機的にかたちを変化させながら、マイク・ミルズという一人の人間、一人の優れたアーティストに決定的な影響を与えているのである。そしてそれは、またかたちを変えて、マイク・ミルズの周囲の人物たちや、彼の子どもに受け継がれるだろう。そして、この映画を観ている我々観客たちにも。


 だが人は、一人の人間の全てを受け継ぐことはできない。本作では、母親の人間性を理解しようとする息子に対して、ドロシアが「それで、私を理解したつもり?」と、くぎを刺すシーンがある。そういった描写によって、彼女の言い分や、自分が理解しきれなかった領域を残しておくという態度にも、マイク・ミルズという人の、優しいフェアな精神というのを感じ取れるのである。(小野寺系)