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トランスブームの立役者・DJ KAYAが語る、シーンの変遷と『TRANCE RAVE』復活の意義

2017年06月07日 19:33  リアルサウンド

リアルサウンド

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 世界三大レイブのひとつと言われ、タイのリゾート地・パンガン島で満月の夜に平均3万人規模の観客を動員するレイブパーティー、『FULLMOON RAVE』にインスパイアされた日本版『FULLMOON RAVE 2017』が、東京・新木場のageHaを舞台に6月9日に初開催される。仕掛け人となったのは、90年代末~00年代初頭に起こった日本のトランスブームの火付け役であり、人気パーティー/コンピレーション・シリーズ『TRANCE RAVE』の中心人物として活躍したDJ KAYA。近年はCTSのサウンドプロデューサーを務める他、アニソンなど日本の音楽も含んだオールミックスDJとして海外でも活動する彼は、自身も当日出演アーティストとして名を連ね、この場所で『TRANCE RAVE』を本格的に復活させる。果たして、日本中を駆け巡った未曽有のトランスブームはどのように生まれたものだったのか。そしてトランスシーンの伝説的なパーティーが、今復活する意義はどんなものなのか。DJ KAYAに訊いた。(杉山仁)


■ 原点は、お客さんが喜ぶかどうか


――そもそもDJ KAYAさんがトランスに出会った経緯は、どんなものだったんですか?


DJ KAYA:『FULLMOON RAVE 2017』にも繋がる話なので、まずはDJをはじめた頃の話からさせてください。トランスが流行る6年前くらい、『FINE』とか『東京ストリートニュース』って雑誌が流行ってて空前のサーファー、スケーター、B-BOYブームでまだ高校生だった僕は宇治田みのるさんや DJ KOOさんに憧れ、友達のPARTYでDJするくらいでした。たまたま大学生のPARTYでクラブに行ったら、めちゃくちゃ人は入ってるんですが、何となく盛り上がりに欠けてて。自分だったらもっと盛り上げられるって自信過剰にも思いました(笑)。だけど当時は敷居が今より高くて大学生の貸切PARTYですらDJを簡単にはやらせてくれるクラブがなかったんですよ。それで「自分でイベントをやるしかない」と思って、当時ブームだった大学生のイベントサークルでDJをするために、まずは大学受験を決意しました。イベントをやればクラブの箱DJの人に自分のDJを聞いてもらえるんじゃないか、というのも考えていました。


ーー大学生としてイベントを作らないと、DJとしてもクラブ業界にアピールできないと思ったわけですね。


DJ KAYA:ただ、僕は高校を辞めていて、そのとき大学を受ける権利がなかった。そこでDJをやりたいからと大検を取って、大学に合格して、DJ活動を優先させるために夜間の2部の学校に通いはじめたんです。


――なるほど。それはすごい話ですね。


DJ KAYA:それで友達を集めてサークルを作り、イベントをはじめたら、毎回お客さんが1000人ぐらいの規模のものになって、今は亡きベルファーレでの学生合同パーティーでは3000人ぐらいの人前でDJができるようになりました。その流れでそのときに一番盛り上がっていた、当時渋谷ギャルの聖地となっていたパイロンや横浜のファイア、人気DJ軍団ハイジーの先輩がオーガナイズしていた西麻布のリングなどでレギュラーを持つことができました。全部当時人気のハコで、僕は大学生だったものの、DJとしてもかなり忙しかったことを覚えています。ただ、avexから『Campus Summit』というCDを出す頃には、僕は自分がかけている曲に飽きてしまうようになった。それまでの僕は、とにかく「みんなが喜ぶ曲をかけよう」ということしか考えていなくて、当時は今で言うTOP40のヒット曲だけをひたすらかける感じで。展開の流れはもちろん意識しますけど、オープニングのダイアナ・キングの「Shy Guy」から終盤までただひたすらアガっていくだけのDJプレイ。
 当時はまだレコード文化真っ盛りですから、僕はみんなが喜ぶ曲をひたすら買い漁っていたので、オファーが殺到しました。ただ、そうしていくうちに、次第にみんなが知ってる曲ばかりかけることに飽きてしまった。もっと自分のためにプレイしてもいいんじゃないか。ある意味で、次第に考え方がプロ志向になっていったんですよ。


――人気DJになり色んなクラブで回した結果、DJとしての自我が芽生えてきた、と。


DJ KAYA:そうです。そうした中で「みんなが知らない曲で、同時に今までやってきたパーティーのアゲアゲ感を損なわないもの」として出会ったのが、当時ヨーロッパを中心に盛り上がり始めていたトランスでした。1997~1999年頃の話ですね。トランスはヨーロッパ発の音楽ということもあって、当時全ての人が心底楽しめるような音楽ではなかったんですよ。特に1990年代っていうのは、まだ一般的にはキャッチーと言える曲もほとんどなかった。けれども、アマからプロに移行していった当時の僕にとっては、玄人好みのミックス技術も必要で、DJのこだわりも表現できる、これはもう素晴らしい音楽だったわけです。その勢いでDJ NeO君と六本木のクワイルって箱「元アールホール」で初めてトランス・イベントをやりましたが、お客さんは10人ぐらいしか入らないような感じでした。もちろんアンダーグランドなトランスシーンは盛り上がってました。それはワープハウスとか、UKハードハウスの延長という意味もあったと思います。その後System Fの「Out Of The Blue」が大ヒットして、Daft Punkの「One More Time」が出たときのようにトランスに興味がない人も興味を持ち始めて。そこでホームグラウンドでもある渋谷のシーンを盛り上げるために、これも今は亡き渋谷FURAという箱で毎月最終日曜日に『K-Style』ってイベントをはじめました。このイベントは、お客さんにトランスを紹介するために立ち上げたパーティーで、最初はトランス以外の曲もたくさんかけていましたね。渋谷FURAは3フロアあって、1FはヒップホップやR&B、2Fのメインフロアはオールミックス、そして3Fがトランスフロアでした。毎回、DJ NeOが盛り上げてる3Fのフロアを早めに閉めると、そこにいた200人ぐらいの音好きな客さんが、大きなメインフロアに降りてくる。そうしてトランスのノリ方を知らないお客さんたちと融合することによって、ラスト1時間はトランスオンリーの楽曲で爆上がりするという状況が生まれていきました。それで2001年4月に、いよいよメインフロアを完全なトランスオンリーのフロアに変えたんですけど、その映像をavexの友達に見せて、「渋谷はこんなことになってるぞ!」と伝えたら、その映像が会議で使われ、それがきっかけになって生まれたのがavexの『Cyber TRANCE』だったらしいです。これ、記憶違いだったらすいません(笑)。ただ、そういった経緯があって、Cyber TRANCE立ち上げの20時間TRANCEというイベントにはK-STYLEとして参加させてもらいました。


――KAYAさんが種を蒔くことになったわけですね。


DJ KAYA:そこから東京だけじゃなく日本全体で流行りはじめていくんです。EDMもそうですが盛り上がり過ぎると新たな進化を遂げて本来のものとは違う、ポップなものが日本で流行りはじめていくんです。もちろん、賛否両論ありますが、今となってはシーンが大きくなり良い事だと僕は思ってます。でも、そこで、僕はまた葛藤することになった。「これは自分がかけたい音楽なのか?」と。結局、当時の僕はプロぶっていただけなんですよ。寿司屋の頑固おやじみたいに「こんな客には握りたくねえ」って。それで『K-Style』を止めて、一時期、求めてない人に無理やりかっこいい音楽を押し付けるような酷い自己満足なイベントもやりました。きっとDJとしてちょっとだけ売れたことで、勘違いしていたんだと思いますね(苦笑)。そのくらいの時期に、〈QUAKE RECORDS〉のDJ UTOくんが『マネーの虎』に出て、「トランス・ミュージックの会社を作りたい」と言って1000万円を獲得して。僕がプレイするかどうか迷っていたポップなトランス・レーベルと独占契約します。そこからビクターの金子さんが『TRANCE RAVE』も、〈QUAKE RECORDS〉の音源を使ってコンピを作ろうという話になるんです。というのも、ちょうど同時期に、いつもDJをやっていた横浜のclub MATRIXのパーティー『FORMAL HIPPIE』の常連だった影山君に、「KAYAっち最近評判悪いよ。『全然アガらない』って言われてる」と教えられて。かなりショックでしたが「このシーンの中で自分がやってることって、完全に間違えてるな」と気づいたんですよね。これはセルアウトという思考とは違うんですけど、「僕の原点スタイルは、お客さんが喜ぶかどうかがすべてだ」ということに改めて気づいた。それでイベントを立ち上げて、CDも新しく生まれ変わらせたのが本当の『TRANCE RAVE』のはじまりだったんです。CDだと『TRANCE RAVE 5』あたりになります。ちょうど渋谷FURAが閉まり、渋谷ATOMに移り変わる時期でもありました。当時サイケは個人的にあまり好きじゃなく、自分のイベントでは絶対やらない感じでしたが、『TRANCE RAVE』からはサイケのフロアも作りはじめました。


■ トランスブームは当時の音楽以外のものも含めた「渋谷のカルチャー全体の力」


――当時日本で爆発的に人気を得たトランスブームの実情はどんなものだったんですか?


DJ KAYA:あのムーブメントは、トランス系の楽曲やDJだけで起こしたものではなかったと思います。むしろ、渋谷のカルチャー全体が生み出したものという感じだった。当時は今よりも渋谷という言葉が全国に与える影響力が大きくて、同時期に『Men’s Egg』や『ボーイズラッシュ』も人気雑誌になってて、そういえばエゴイストも人気で渋谷109のカリスマ店員ブームが起きてましたよね。そこに至るまでにも学生サークルのパーティーのブームや、渋谷パイロンのコギャル的なブームもあって、トランスは最初、その中の流行に敏感な最先端の人だけが楽しむものだったんです。そうした感度の高い遊び人がK-styleに集まってました。そこに『Cyber TRANCE』や『TRANCE RAVE』が出てきたことで、渋谷、六本木、新宿などの色んな人々が、結果的にトランスというカルチャーに集まった。今だから言えることですけど、当時はサイバートランスが羨ましかったです。ベルファーレという箱も凄いし、avexの広告宣伝費も凄いし(笑)。悔しいけど、自分のPARTYよりも爆発的に流行るところを目撃したわけですから。でも、それがあったから、『TRANCE RAVE』を絶対に売りたいと思ったし、『Cyber TRANCE』とは真逆で日本向けなポップな選曲を『TRANCE RAVE』でやれたと思います。ちなみにavexとは後に『SUPER BEST TRANCE』ってCDで一緒に仕事をするような関係になるんですけどね。僕は『TRANCE RAVE』のコンセプトを「トランスとか何も知らない人が聴いても、ただ良いと思える曲だけを集める」というものにしました。そうしたら、5作目~6作目のときに10万枚以上売れるような状況になっていきました。


――最終的に『TRANCE RAVE』シリーズはオリコンチャートの洋楽部門で1位になり、『日本ゴールドディスク大賞』公認アルバムにもなりました。


DJ KAYA:でも、当時は何が起きているのかよく分かっていなかったですね。もっと上手くやれるはずだったという反省が多すぎたし、自分は単にQUAKEさんが持っている色々な曲を聴いて、「この曲にしよう」と選んだだけなので。「俺のCDが超売れたぜ」という感覚は今でもありません。僕が代表してミックスして選曲もしたけど、あれは当時の音楽以外のものも含めた「渋谷のカルチャー全体の力」だったんですよ。実際、『TRANCE RAVE』には『TRANCE RAVE presents men’s egg night』や『ブチアゲ♂トランス』、Club ATOMのCDなど色んなシリーズがあって、僕が担当したのは3カ月に一度の頻度でリリースしていた総集編=ベストでした。だからこそいい曲が揃ってて、結果的に最も売れたというのがあって。もちろん、コンピレーションが売れたことは、純粋に嬉しかったですけどね。葛藤を振り切って「みんなが喜ぶことをしよう」と思ったことが、結果に繋がったわけですから。とにかく、『TRANCE RAVE』は決してDJが主役じゃなかったんです。お客さんをメインに考えていたからこそ成功したんですよ。


――ただ、トランスは一度爆発的に市民権を得ただけに、その後はブームの落ち込みも経験することになったと思います。


DJ KAYA:そうですね。何でもそうですけど、アンダーグラウンドのまま盛り上がらなければ、同じ状態が一生続くわけですよね。ただ、一度ドーン! と盛り上がってしまうと、そのまま右肩上がりを続けることはかなり難しい。ブームの後のトランスシーンは、まるでバブルが弾けたかのようでした。一方で、海外ではオランダを中心に起きたトランスブームが、結局アメリカまでは届かず、あくまでヨーロッパ圏のムーブメントで終わってしまった。しかしそのときにアーミン(・ヴァン・ブーレン)やティエストが、アメリカ国民にボディーブローのように爪痕を残したおかげで、後にEDMとしてアメリカでもオーディエンスの支持を得ることになるわけです。


――つまりトランスのムーブメントがあったおかげで、アメリカでも爆発的な人気を誇るダンス・カルチャー、EDMが誕生した、と。


DJ KAYA:僕はそういう部分もあると思っているんです。ただ、日本の場合は、「トランスって一番かっこよくね?」という時期を爆発的な規模で迎えたことで「もうトランスってダサくね?」というところまで行ってしまった。その責任のひとつは、『TRANCE RAVE』にもあったと思います。あと、日本独自の振り付けがついてパラパラになったときが、シーンの決定的な分岐点だったんだと思いますね。でもそれは、あるカルチャーが当初の枠を超えてより広がっていったという、何よりの証拠でもあったと思います。コアな人たちは減ったけれど、それが今のEDMブームに時代を繋げた部分はきっとあったはずです。


――現在EDMフェスのヘッドライナーを務めたりもするティエストはまさにそうですね。


DJ KAYA:今のティエストにとってのEDMは、きっと僕にとっての『TRANCE RAVE』のような状況なんだと思いますね。トランスをやっていた初期のティエストは、今と真逆なイメージです。いい曲は多いし、僕自身も超好きな曲がたくさんありましたけど、トランスブームの後期はティエストをかけたら若い子は乗りづらい感がありました(笑)。日本でトランスが盛り下がっていったときに体験したのは、これは今のEDMにも言えることですけど、海外のアーティストが日本人が求める(キャッチーな)曲を作らなくなるということでした。日本人が求める曲と海外の人が盛り上がる曲はどうしても違う部分があるし、そこには(カルチャーが広まっていく際の)時差もあって、国内は徐々に日本人が日本の人々に向けてトランスを作る時期に移行していくんです。「一晩通して僕やDJ TORA.ORIENTAL SPACE. Overhead Champion.DELACTIONなどをはじめ日本人の曲しかかからない」という、謎の現象が生まれていったんですよ。そうなったことで、音楽的にも幅が狭くなって、シーンが見事に縮小していきました。でも、僕はそのとき逆に、「日本人が作った曲だけでフロアが成立しているのってすごいな」と思ったんですよ。そして、このとき「日本人が作った曲が海外でも流行っている」という状況にできたらよかったな、と思ったんです。食べ過ぎて飽きちゃっているものを無理やり押し付けてもしょうがないですから、トランスに夢中になった人を全員連れ戻すのは無理だと思って。そこからは、日本人のDJが日本人としてできることは何だろう、と考えるようになっていきました。


――それでのちに『ジャパネイション』(日本の音楽で踊るDJイベント)を立ち上げるのですね。


DJ KAYA:その通りです。だから、僕の中ではトランスと『ジャパネイション』は繋がっているものなんですよ。今度はクラブに興味のない人たちに、クラブの魅力を紹介したいと思うようになった。それにDJが洋楽を流して、それが盛り上がることだけがクラブではないぞ、と伝えたくなった。当然、アメリカではアメリカのDJがアメリカの曲をかけていて、ヨーロッパではDJがヨーロッパの曲をかけているわけです。本来のクラブの感覚で言うならば、「日本のクラブで日本の音楽がかかっていてもいいじゃないか」と。カラテカの入江君とDJ ANDOの『J POPナイト』に参加したのも大きな原因でした。2人のお客さんを楽しませようというサービス精神はかなり凄かった。その後avexと『JAPANATION』を立ち上げ、渋谷 ATOMのバックアップのおかげで月曜日にもかかわらず、1000人が遊びにきてくれるようになりました。何度も言うように、自分の中ではトランスブームの頃の延長線上だったんですよ。残念なことにクラブ・シーンは受け入れてはくれなかったですけど。「またあいつが変なことやってるぞ」という感じで見られてたんじゃないかな?(笑) けど、年末の『COUNTDOWN JAPAN』とか上海万博の出演など色々先には繋がりました。


――でも、お話を聞いていると、KAYAさん自身は昔から一貫しているように思えますね。


DJ KAYA:そうですね。今では『AnimeJapan』でもmotsuさんとDJをさせてもらえるようになっています。実は今年、海外向けに『ジャパネイション』を復活させようと思っているんですよ。アニメ、ボカロ、J-POP……日本人が作った素晴らしい音楽を持っていけば、色んな音楽を海外に持っていける。ただ、当時『ジャパネイション』をやっていて、「俺は若くないな」とも思ったんですよ。トランスの頃は自分も若くて、横のネットワークを持っていましたけど、今は20代の友達が1000人いるわけではないんで。だから、俺一人では絶対無理だと思ってて、俺じゃなくていいから、誰かがやってくれたらいい、クラブでもプレイされるアーティスト作りたい、そう思っては始めたのがCTSだったんです。だから、自分の中でCTSは、『TRANCE RAVE』のアーティスト版でもあるんですよ。


――実は現在まで、『TRANCE RAVE』で培ったものが線になって続いているということですね。『TRANCE RAVE』をやっていく中で、一番記憶に残っていることと言うと?


DJ KAYA:やっぱり、2004年の『FUJI TRANCE RAVE』ですね。あれもみんなで成功させたイベントでした。『TRANCE RAVE』が河口湖でレイブをやるからといって、『FUJI ROCK FESTIVAL』のようにすぐに人が集まるわけではないし、このイベントも関係してくれた人たちの合同パーティーだったんですよ。『TRANCE RAVE presents men’s egg night』チームやブチアゲTRANCEチームが盛り上げて、夜になると僕らが出てくるという感じで。当日は台風で土砂降りでしたね。せっかく満月に開催したのに、月は全然見えなかった(笑)。


――(笑)。満月の日に開催することについては、何か意味があったんですか?


DJ KAYA:あのときは特に理由があったわけではないです。ただ、今から3年ほど前に『TRANCE RAVE』をアゲハのサブフロアで一日だけ復活させたときは、新月の日に復活させたんですよ。新月は空には月が何もない状態ですよね。星占い的に言うと「新しいことを始める日に適している日」で。それもあって、『TRANCE RAVE』を新月からはじめようということになりました。それがちょうど、『FULLMOON RAVE』を日本でやりたいと思いはじめた頃ですね。


■『FULLMOON RAVE』は、お客さんが主役


――なるほど! DJ KAYAさんが『FULLMOON RAVE』に興味を持ったきっかけはどんなものだったんでしょう? KAYAさんは本場タイ・パンガン島の『FULLMOON RAVE』に出演されたこともありますね。


DJ KAYA:世界には色々なパーティーがありますけど、「どうやら『FULLMOON RAVE』は、お客さんが主役らしいぞ」ということを聞いていて、ずっと気になっていたんですよ。通常のパーティーはあくまでDJが主役ですよね。でも、僕のスタンスは『TRANCE RAVE』もそうで「お客さんが主役」ということなので、これは楽しそうだなと。それでバーレスク東京のMC MANさんと話してみたら、トントン拍子に話が進んで、まずはパンガン島のフルムーンパーティーでDJをすることになりました。それで現地に行ってみたら、本当にDJが全然目立っていなかったんですよ。


――『FULLMOON RAVE』は満月になるたびにパンガン島のロングビーチに2~3万人の観衆が集まって、夜通し音楽が鳴り続ける、世界三大レイブのひとつと言われています。


DJ KAYA:景色だけで言うと、Fatboy Slimのビッグビーチ『BIG BEACH FESTIVAL』(本国イギリスのブライトンビーチでのパーティーのこと)という感じですけど、ビッグビーチはDJブースに向かって「何万人もがひとりのDJのために集った」という雰囲気ですよね。これは『ULTRA』も『Tomorrowland』も『EDC』も同じで、「すごいDJがやってきて、みんながそのプレイを観にくる」という感じで。でも、『FULLMOON PARTY』の場合、そもそもDJがどこにいるのかも分からない(笑)。海沿いに「海の家」がたくさん並んでいて、その全部が爆音で音を鳴らしているんです。ひとつひとつが競い合うように音を出して。恐らく盛り上がっているところはドリンクが出て、売り上げが伸びるということなんでしょうね。だから、極端なところだとDJブースが一番奥にあって、外ではものすごい数の人が踊っているのに、DJからはお客さんが一切見えない、という場所もあるぐらいで。しかも、ブースが隣接して連なっているんで、みんな同じ音で盛り上がっていると思いきや、ブースとブースの間のグレーゾーンではノッている音も違ったりもするんですよ。それに、お立ち台で踊っているお客さんに対して、DJブースは全然端の方にある。それを観たときに、「ああ、これは学生パーティーをやっていた頃のベルファーレのお立ち台と一緒だ」と思ったんです。昔のディスコもそうですよね。あれも、DJというよりお客さんにスポットライトが当たっていたわけで。


――スーパースターDJが主役ではなく、そこに集まった観客がカルチャーを作っていた、と。


DJ KAYA:その通りです。それに、バーレスク東京もそういった雰囲気を大切にしているところなんですよ。それもあって、『FULLMOON PARTY』のお立ち台を観てピンと来たんです。「この日本版は、絶対に俺がやらなきゃダメだ」と。もちろん、そもそも有名なDJがくるわけでもないので、現地の『FULLMOON PARTY』を日本に持ってくる必要もあまりないんですけどね。向こうのパーティーを「日本でやらせてください」という意味があまりない……(笑)。


――では、「そのバイブスを持ってきたい」ということですか?


DJ KAYA:というよりも、「同じバイブスじゃん」という感覚だったんですよ。向こうに行って何かが変わったのではなくて、「俺と一緒だ」と思った。自分がDJとして大切にしてきたことも、『FULLMOON RAVE』の成り立ちも、DJの原体験になった学生パーティーも、バーレスク東京の営業コンセプトも、全部それと一緒だったので。だから、その集大成として、今回の『FULLMOON RAVE 2017』では、メインフロアで『TRANCE RAVE』を本格的に復活させて、「WATER」はDJ KATO、DJ YAGI、DJ ACEを中心にサイケデリックトランスのフロアにして本国パンガン島でDJをしているSKAZIにも出てもらうことにしました。そのうえで、これまで話してきたカルチャーをどの年代に体験した人が来ても楽しめるものにと考えていきましたね。今回は、渋谷を中心とした若者カルチャーの中で、すべての年代の人が来られるようにフロアを作るということをコンセプトにした。だから、フロア別にみると、20歳から50歳まで楽しんでもらえるようにしたつもりです。「BOX」は今の渋谷でパリピのカルチャーを盛り上げているあっくんの『NEON RAVE』があるし、外の「PARK」にはバーベキューを置いて騒がしくない空間を作って、そこではDJ HANGERの超絶スクラッチやポイのパフォーマンスも観られるようにします。なので、今回は全年代型のイベントになることを重視しているんですよ。これは、若者を中心に支持を集めるEDMだけではできないことだと思ってます。そしてトランスがあることによって、世代の壁を越えられる。さらに言えば、次回開催以降はカルチャーの数を増やしていきたいです。トランスがそうであるように、色んなジャンルを「カルチャーごと」に増やしていきたい。


――2017年の開催に関しては、当日来る方にどんなことを楽しみにしていてほしいですか?


DJ KAYA:とにかく、全てを楽しんでもらえたら嬉しいですね。僕らは「すべてがメインフロアだ」という気持ちで準備しているので。会場に来てしっくりくるフロアを見つけたら、あとはいつもより弾けてほしい。顔にペイントして、日常を離れて、普段とは違う自分になって遊べるんじゃないかと思います。バケツカクテルなど面白いものも用意しているんで、とにかくみんな、いつもよりバカになってほしいですね。僕のDJセットは自分の経験したトランスの歴史を表現できるセットにしようと思っています。とはいえ、今回はバーレスク東京さんと一緒に制作を進めているので、ただの同窓会にはならないと思いますよ。過去の良きカルチャーと、現在活躍している人たちが手を組んでいるというのが、一番のポイントです。楽曲に関しても新しい挑戦がしたくて実は今回、ゲストで出演するシャンティと共作で僕のHIT曲「God」のメロディを使った「FULLMOON ANTHEM」というテーマソングもShantiと制作しました。6月7日よりオフィシャルサイトで試聴可能なのでぜひチェックして遊びに来てください!
(杉山仁)