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『LOGAN/ローガン』は“名作映画”の領域にーー本物のドラマに宿るアメリカの魂

2017年06月07日 10:23  リアルサウンド

リアルサウンド

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 とうとうアメコミ映画に、名作と呼べる作品が生まれた…本作『LOGAN/ローガン』のラストシーンを観ながら、そのような感慨に耽っていた。


参考:「“怒りを抱えた国”を見せる作品だ」『LOGAN/ローガン』監督インタビュー


 若年層向けの娯楽という印象を持つ者も多かった、ヒーローが活躍するアメリカン・コミックを題材にした映画は、近年、原作となるコミック自体の進化もあり、重厚なテーマやシリアスな演出によって、かなり別のイメージのものへと変わってきている。そのなかでも、クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』や、ルッソ兄弟監督の『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』など、さらにヒーローの映画の可能性を広げる、規格外の作品が出てきている。そして本作、『LOGAN/ローガン』は、それをまたさらに進ませたものになっている。ここでは、もはや「傑作」を超えて、すでに「名作」の領域に到達してしまった感のある『LOGAN/ローガン』の価値について、できるだけ深く追求していきたい。


 雨降る墓場の木陰に寄りかかり、酒をあおる。洗面台の前で露わになる、傷つき疲れきった肉体。この、アルコール依存症で、老いた髭ヅラの冴えない男が、かつて「X-MEN」として活躍したヒーロー「ウルヴァリン」の、作中の設定である2029年の姿だ。彼はその名をすでに捨て、ただのリムジン運転手「ローガン」となっている。しょぼくれたローガンを捉えたアンチポップな映像は、アメコミ映画というよりは西部劇の手触りである。アメリカのカントリー・ミュージックの代表的存在だったジョニー・キャッシュがカヴァーした、ナイン・インチ・ネイルズの「Hurt」が流れる本作の予告編を見たときから、何か凄まじいことが起きる予感があった。


 本作は、20世紀フォックスによる『X-MEN』シリーズのなかで、ヒュー・ジャックマンが演じて人気を博したキャラクター、ウルヴァリンが主人公となるスピンオフ作品の最終作となる第三弾である。しかし本作に限ってはスピンオフの領分を越えて、いままで描かれてきた『X-MEN』のドラマに区切りをつけるような、決定的な一作となっていた。その物語は、年老いたウルヴァリンの活躍が描かれるコミック『オールドマン・ローガン』を、大きく脚色したものだ。超人的治癒能力が衰えたローガンは、もはや不死身の肉体ではなく、ときに老眼鏡をかけ、往年の西部劇俳優ジョン・ウェインのように片足を引きずりながら、メキシコ国境沿いの廃工場で貧しい生活を送っている。本作は暴力的な描写からR指定となっており、彼がリースしている大事なリムジンのタイヤを盗もうとするギャングを、次々と殺害する冒頭の不穏なアクションシーンから、彼のヒーロー性が失われつつあることも類推できる。


 かつて「プロフェッサーX」として、人を超えた能力を持ったミュータントたちを指導した偉大なチャールズ・エグゼビアも、いまや認知症を患い、廃工場の倒壊したタンクの中で、生き残りのミュータントであるローガンとキャリバンに介護され、持病の発作を繰り返しながら、ただ死ぬことを待っているだけの存在になっている。もはや彼に敬意を払っている余裕など、ローガンたちにはない。多くのミュータントが死滅した時代、ローガンらは限られた生活費のなかで貯金をしながら、こつこつと労働し、食事を作り、老人の下の世話をして、ただ孤独に日々をやり過ごしていくだけなのだ。


 以前は不死の能力を持っていたローガンは、かつて第一次大戦、第二次大戦に従軍し、さらにX-MENとして敵対するミュータントらを倒して、アメリカを救ってきた。その末路が、老体に鞭打ちながらの毎日の過酷な労働と介護生活なのである。こんな地味なヒーローがいるのか。ここまで悲しいヒーロー映画があるのか。これはある意味で、いままで描かれてきたヒーロー最大の試練であるといえる。このような問題は、我々も必ず向き合うことになる「現実」そのものなのだ。それを正面から見据えたヒーロー大作映画というのは前代未聞だ。


 アメコミヒーローが第一に象徴するものは、「正義の心」である。そんなヒーローを代表する一人であるはずのローガンは、多くの人々から忘れられ、放棄され荒れ果てた廃工場と一緒に朽ちようとしている。それと対比される、大掛かりな機械によって管理されたトウモロコシ畑で活躍する現役のシステムは、ひたすら効率だけを追求しているように見える。これが示すものは、アメリカという国の価値観や、社会状況の移り変わりである。


 かつてアメリカの市民は、自分の労働が国を豊かにして、それが自分や家族、子孫たちの生活をも向上させることになるという、国民共通の大目標を信じていた。しかし大企業中心の社会になってくると、企業にとっての利益や効率が何よりも優先され、そのトップとなる、ごく一部の富裕層だけが得をするような、極端な格差社会の構造が出来上がっていった。それでも仕事があればまだいい方で、さらなるコストカットのために、企業が労働力を海外に求めたために、国内の工場などに従事する熟練の労働者は職を失い、居場所を失い、プライドを失うことになった。


 利益のために先鋭化していく大企業が支配する社会において、残されている職とは、ただ管理者の命令や既存のシステムだけを盲目的に遂行する、誰がやってもさほど変わらないような内容の、無個性な労働である。自主性を持たずに、労働組合などを作らず、それがどんなに倫理に反し、人々を不幸にすると分かっていても、粛々とこなしていく代替可能な存在。それこそがいま社会に求められる、目指すべきヒーロー像だというのだ。本作でローガンと戦うことになる敵は、まさにそのように作られた哀しいミュータントであり、企業によって現在求められる市民の偶像なのである。


 また同時に描かれるのが、メキシコ移民問題だ。メキシコ移民の女性とミュータントの遺伝子から、人工的に人間兵器を作ろうとする、非人道的な研究施設は、移民を同等の人間と見なさず、安い賃金で過酷な労働を課して搾取してきたアメリカの状況を暗示している。多くのアメリカの労働者と同様、彼らもまた長年、アメリカという国に認められ、居場所を作るために貢献しようとしてきた存在なのである。市民の一部が彼らに対して敵意を向けようとも、彼らはすでにアメリカの一部であり、アメリカをアメリカたらしめる存在になっているのだ。ローガンたちがかくまうことになる少女ローラが、ローガンが好むと好まざるとに関わらず、彼の娘になっていくように。


 本作が、このようなひどい世界を描きながら訴えかけるのは、本当の「正義」のかたちである。力を失っても、どんな状況に置かれても、未来のために、他人のために、それがどんなに小さなことであっても、自分がいまできることをやる。老人のために食事を作ることも、下の世話をすることも、子どもに優しくすることも、英雄的な行為なのだ。そして個人個人がヒーローになることで、自分自身も救われていく。本作で名作西部劇『シェーン』が登場するのは、まさにその精神が共有されているからであろう。


 問題が山積するアメリカの実相をひとつの作品に集約させ、そこを乗り越える精神を示した『LOGAN/ローガン』は、まさに「名作」の名にふさわしい作品である。ハリウッド大作はビジネスのために、どうしても多くの観客に好まれるような無難で平板な表現に傾いていきがちだ。しかし本作は、本物の深いドラマを描こうとする、ジェームズ・マンゴールド監督の強い作家性と信念に貫かれている。作品を最終的に輝かせるのは、やはり作家個人の個性であり欲望である。本作はそのことにも気づかせてくれる。(小野寺系)