2017年06月03日 10:33 弁護士ドットコム
「母親が死んだとき、『ばかやろー片耳返せ! 返せ!』って、亡くなった母親の耳を掴みながら、泣き叫びました」――。こう話すのは、母親からの虐待で左耳の聴覚を完全に失ってしまった美咲さん(仮名・23歳)。いわゆる「虐待サバイバー」だ。取材の際、美咲さんは虐待を受けた日々を思い出し、溢れ出す涙をぬぐった。しかし、いくら拭ってもその涙は止まることはなかった。
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厚生労働省によると、2015年度中に全国の児童相談所が児童虐待相談として対応した件数は初の10万件を突破。これまでで過去最多の件数を記録した。
今、子供たちに何が起こっているのか。母親からの壮絶な虐待を生き抜き、現在は養子としての幸せを手に入れた少女に迫る。(ノンフィクション・ライター 菅野久美子)
都内の居酒屋でアルバイトをしている美咲さんは、肩下まで伸びたロングヘアーが印象的な、可愛らしい女の子だ。言葉遣いがとても丁寧で、礼儀正しい人柄が伝わってくる。
生まれは東京・六本木。母親は専業主婦だったが、美咲さんが5歳の時、父親の多額の借金をきっかけに、離婚。その後、父親とは現在まで音信不通となっている。残された美咲さん親子は生活保護を受けるようになった。しかし、その金の大半は、母親の酒代に消えていった。
美咲さんによると、母親の虐待は、2~3歳くらいのときから始まっていたという。いつもそれは何の前触れもなく起こった。いきなり灰皿を美咲さんの頭に投げ付けたり、食べ物をこぼしたりする。気に食わないことがあると、母親は美咲さんの髪の毛を掴んで、部屋中を引きずり回した。顔面を殴るのは日常茶飯事だった。布団たたきで、体中叩かれて、全身が網目模様になったこともある。
母親は美咲さんの体の傷を隠すため、プールや体育の授業は「心臓の病気」と嘘をついて休ませていた。
灰皿を投げられて大ケガした後頭部には、今もパックリと開いた傷が残っていて、そこだけデコボコになっているのだという。その時は病院に連れていかれたが、原因を聞こうとする医師に、「階段から転げ落ちた」と事もなげに嘘をついた母の姿を、今も忘れることができない。
「頭はコブだらけでした。それがまるで月面のクレーターみたいなんですよ。どこを触っても、ジャガイモのようにでこぼこ。小さい頃はよく『今日は、いち、に、さん、し、ご、ろく、七個増えた』って数えていましたね」
激痛のあまり、枕も使えず、ごろりと布団に横たわるようにして寝るのが日常だった。
左耳がダメージを受けたのは、殴打などによるものではなかった。幼稚園に入ったばかりの頃だった。コップの水をこぼした美咲さんを、母親は鬼のような形相で風呂場まで連れていき、シャワーヘッドから噴射する水を左耳に押し当てたのだ。
「耳いたいよー! お母さん、耳いたいよー!」
そのせいで鼓膜が破れ、左耳の聴覚を完全に失ったという。難聴の中でも最も悪い「重度難聴」だ。
けれども、美咲さんにとって一番辛かった経験は、顔中を殴られることでも、左耳の聴覚を失うことでもなかった。
真夏のクローゼットーー。そこは灼熱の地獄だった。
母親は気が済むまで暴力を振うと、いつも決まって最後は部屋のクローゼットに美咲さんを閉じ込めた。6歳の子どもの力では開けることはできなかった。
「とにかく中が熱くて、熱くて、飲み物もないし、トイレも行けない。お腹も空く。そのうち気持ち悪くなって、吐いちゃうんですよ。暑さで脱水症状に見舞われてゲーゲー。おしっこも漏らしっぱなし。クローゼットの中は、ひどい状態になってましたね」
永遠とも思える時間が過ぎたころ、汚物と小便にまみれて、意識を失っている美咲さんを見た母親は、慌てて救急車を呼んだ。
意識が少しずつ回復すると、美咲さんには、ある疑問が浮かんだ。
「救急車を呼ぶってことは、助けたいから呼ぶんでしょ、なんで救急車を呼ぶの? って思ってました。殺したいのか、生かしたいのか、どっちだよって」
しかし、そのときも周囲から虐待だと気づかれることはなかったという。美咲さんは、当時を振り返って、第三者が虐待を疑っていても、見て見ぬふりをするケースがかなりあるのではないかと話す。昔と比べて児童虐待の認知度は高まってはいるものの、家族を「聖域」とみる考え方は未だに根強い。
「子どもは、虐待されていても、言葉が見つからないんです。子どものときって、悲しいとか、痛いとか、語彙が乏しいから言葉で伝えらないというのもあるんです。だから、大人の人の気付きが重要なんです。
私は周囲の大人の人たちに助けて欲しかった。体中あざだらけだったし、着替えは幼稚園の先生に手伝っていてもらっていたから、知っていたはず。でも、何もしてくれなかった」
母親は、美咲さんを虐待した後、毎回、必ず我に返ったかのように美咲さんを抱きしめ、そして泣き出した。
「毎回泣きながら『ごめんね、こんな親でごめん』と謝るんです。子ども心にはそれを信じたい。怖いけど、許しちゃう、どんなことされてもお母さんだから、信じたい。どんなにヒドイことされても、頑張ろうって」
自分にとって、たった1人の母親――。美咲さんは、どんなに酷い暴力を振るわれても母親を憎むことができなかった。
美咲さんは、母親の虐待に薄々気づいていた祖母から「何かあったら、これに電話するのよ」と、119番と110番を繰り返し教えられていた。「ここに電話したら助けてくれる人が来るから」と。美咲さんは小学2年生のある日、母親の虐待から逃げ回りながら、電話の子機を手に持ってボタンを押した。すると、母親は美咲さんの髪の毛を引っ張った。
「誰に電話すんの! てめえぇ!」
逆上した母親はそう叫んだが、幸いにも電話はかろうじて警察へ繋がり、最寄りの署員が慌ててやってきた。だが、これもいつものように母親は「これはただの躾(しつけ)です!」と強引に諭して署員も納得して帰ってしまう。美咲さんも「大丈夫です」と言うしかなかった。
美咲さんは虐待から逃げ出したかったが、署員にそれを言うと保護施設に送られることを知っていた。保護施設に入ることは、母親から引き離されるという、さらに辛い結末を意味していた。「虐待はイヤ」だが、「母親がイヤ」なわけではない。
そんな揺れる心理の狭間で、美咲さんは日々引き裂かれる思いだった。
それでも、警察に電話をすれば、一時的にしろ母親の暴力は収まる――。それは極限状況における最後のライフラインだったという。警察への通報と署員の訪問は、その後何度か繰り返された。
しかし、それを知った母親は、非情にも電話の子機を子どもの手に届かない冷蔵庫の上に置くようになった。
「あっ、もう届かない。誰にももう、助けてもらえないんだ」
美咲さんは、それ以降、二度と自ら外部に電話で助けを求めることはできなくなった。
その後も、虐待を繰り返していた母親は、アルコール依存症を患い、肝臓の病気が元で美咲さんが中2のときに亡くなった。連日のように暴力を振るった母親だったが、目の前で冷たくなった姿を見ると、悲しくて涙が止まらなかったという。しかし、それでも冒頭のように叫んだのだ。
「『ばかやろー片耳返せ! 返せ!』って、亡くなった母親の耳を掴みながら、泣き叫びました」
美咲さんは、虐待の日々を振り返って、どう感じるのだろうか。
「あれだけの虐待を受けて、よく今まで生きてたなあって思いますね。改めて振り返ってみると、お母さんは弱い人だったと思うんです。
そして、それを受け入れられずに、私を虐待していた。でも、いくら自分が弱いからと言って、抵抗できない子どもに手を出すのは絶対にしてはいけないこと。私はそんな自分の弱さも受け入れられる人間になりたいと思っています」
美咲さんは力強くまっすぐに見つめてそう答えた。
後編では、新たな家族と出会い、新しい人生を歩み始めた美咲さんの姿を伝えたい。
(後編「虐待をした母の死…売春、違法薬物におぼれた少女を救った「母」との出会い(下)」はこちら→ https://www.bengo4.com/internet/n_6179/ )
【著者プロフィール】
菅野久美子(かんの・くみこ)
ノンフィクション・ライター。最新刊は、『孤独死大国 予備軍1000万人時代のリアル』(双葉社)。著書に『大島てるが案内人 事故物件めぐりをしてきました』(彩図社)などがある。孤独死や特殊清掃の現場にスポットを当てた記事を『日刊SPA!』や『週刊実話ザ・タブー』などで執筆している。
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