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『架空OL日記』は月曜日の憂鬱を忘れさせる バカリズム主演ドラマの革新性

2017年06月03日 10:03  リアルサウンド

リアルサウンド

 『架空OL日記』を見ている人は、あんなOL生活はないと思うのか、それとも、あれこそOLの実態だと思うのだろうか。


参考:バカリズム主演『架空OL日記』の狂気 「日常系ドラマ」が誘う倒錯の世界


 自分は、地元で約6年、上京して2年、OL生活をしたことがある。上京する前にもお金を貯めようと3か月と決めてお硬い会社で派遣をやったこともある。そのとき以外は制服こそなかったが、昼には食堂や会議室でお昼ごはんを同僚たちと食べたし、会社帰りにどこかに一緒に行くこともあった。


 たまには、ひとりでお昼を食べようと思う日もあったが、お昼に会議室のテレビを見ながら、みんなでうだうだ話すのは楽しかった。たまに、テレビを見ていておとなしそうな女性から、辛辣でとんでもなく的確な批評が飛び出したりもして、彼女以上の批評家はいないのではないかと思い出したりもする。デリカシーのない上司へのつっこみが、女性たちの連帯を生むこともあった。ときおり空気を読まない子の発言にイラっとしても、心の中でつっこむことで輪を乱さないようにすることが優しさだった。そんなOL時代を過ごした自分が『架空OL日記』を見て思うのは、すごく自然なOLの姿を描いているなということだ。


 その自然さに寄与しているのが、バカリズム演じるOLのしゃべり方やたたずまいだ。


 通常、コントなどで、男性が女性役をするときには、大げさにメイクをしたり、カツラをつけてロングヘア―にしたり、女性的(と思われる)な動きをしたりと、ステレオタイプな「女性らしさ」を強調することが多い。また、言葉遣いも、男性が女性を演じるからこそ、「だわ」だとか「なのよ」などという言葉を使いたくなるものだ。


 しかし、バカリズムは、普段のバカリズムのままでOLたちと会話する。その姿をみて、不自然と思う人もいるかもしれないが、実際に女性同士が話しているときは、バカリズムがバカリズムのままで話している方に近い。もちろん、そうではない人もいるかもしれないが、世の中には、ああいうコミュニケーションをしている女性も多いのだ。


 多くの女性は、さほどステレオタイプな「女性らしさ」をまとって行動をしているわけではない、という前提でこのドラマが成り立っている。それがバカリズム演じるOLの見た目や行動から伝わってくるのだが、そんな前提は、ほかの部分でも感じられる。


 例えば、OLを描いた多くのドラマでは、女性がお局と新人という対立で描かれたり、女性同士のいざこざが描かれたり、また社内での恋愛事情が絡んでくるものが多かった。女性を善と悪に分けて、善の側に立ったもの(その役割をお局の年齢のOLが担うことは少ない)が、まるで水戸黄門の印籠をかざすように正義をふりかざすドラマもあったが、かなり評判が悪かったのを覚えている。


 もちろん、実際のOL生活で、そんな対立がまったくないと言うつもりはない。しかし、本当のOLの日常は、憂鬱な月曜日をどう乗り越えるかとか、給湯室のお茶っ葉を誰が変えていなかったのかが気にかかったりとか、そんな些細なことでも占められている。


 日常とはそんなことの連続であり、そういう日常はこれまではドラマにはならないと思われていたのかもしれない。しかし、そんな些細な日常の出来事を、会話だけで成立させ、ときにはちょっと心に刺さる出来事に描いている本作は、地味に見えるかもしれないが、実はとんでもなく革新的な作品なのではないだろうか。


 しかも、なんでもない日常やオチのない会話は、責任ある仕事を任されて充実した毎日を送っていると自負していたり、自分の話には配置がしっかりしていて必ずオチがあると思っている男性からはしょーもないものと見なされがちだ。だが、この作品に限ってはその視線が感じられない。


 もちろん、バカリズムのコントなどで、女性のしょーもなさを笑うネタがなかったわけではないが、本作に限っては、まったく女性への嘲笑が見えてこない。


 そんな本作を土曜の深夜(日曜の始まり)に見ていると、月曜の憂鬱さを少しは忘れられそうな気がしてくるのだ。(西森路代)